2013年09月08日「一難去って、また一難」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:列王記上17章17~24節

説教要旨:
神の助けにより、やもめとその息子、また預言者エリヤは飢餓の危機から救われました。
しかしそのあと、より深刻な危機が訪れます。それはやもめの息子が重い病気にかかり、死んでしまうということが起こるのです。一難去って、また一難であります。
このようなことは私たちの人生においても起こります。一難がやっと去ったと思ったとたん、また新たな一難に襲われるということは多々あることです。やもめはそれに直面します。
やもめは息子の死を前にして、エリヤに「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。
あなたはわたしの罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか」と詰問します。
エリヤにとってぐさりと胸を刺す言葉です。やもめは、息子の死は自分が犯した罪ゆえに起こったと見ているのです。その罪を思い起こさせるために、エリヤが来たのかと、息子の死というやるせなさをエリヤにぶつけるのです。やもめは因果応報の考えに立っています。
エリヤはやもめの問いに直接的には答えていません。エリヤは因果応報の考えを断固として退けていません。また肯定もしていません。エリヤ自身がまだ因果応報の考えから解き放たれていないからではないのでしょうか。因果応報思想にまだ囚われているエリヤとそこから解き放たれたいという思いのエリヤが葛藤しています。
葛藤しつつ、エリヤは今息子が生き返ることをただ願うばかりです。
神は、息子を生き返らすということで、やもめを、またエリヤを因果応報の考えから解き放っていきます。
決して息子の死は、やもめが重い罪を犯したから起こったのではないのだという神からの宣言であります。
私たちは新約聖書において、決定的に因果応報が断ち切られていることを見ることができます。それはイエス・キリストにおいて現されました。
罪なき神の子イエス・キリストが十字架でなぜ死ななければならないのか。因果応報の考えでは、イエスが死に価する罪を犯したがゆえであるとなります。しかし神の子イエス・キリストは罪なき御方です。
その罪なき御方が十字架で死ぬということは因果応報の考えでは理解できないことであります。
十字架は因果応報思想を打ち破っているのです。人の苦難は人が犯した罪ゆえであるという因果応報思想に代わり、苦難にこそ、神の愛が現れるという逆説を十字架は示しているのです。