2011年04月24日「新し世界の始まり」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マルコによる福音書16章1~8節

説教要旨:
主イエスが十字架でなくなられたのは、安息日の前の日であります。
安息日の前の日、それは神の天地創造の6日目にあたります。
その6日目に神は人間を造られました。
同じように神は、安息日の前日に御子イエス・キリストの十字架の死を通して、新しい人間を造ろうとされたのです。その新しい人間とは、誰か。
それは十字架の恵みによって生きる人間です。復活の光のもと生きる人間です。
また神は、十字架を起点として新しい世界の創造もされようとされています。
その宣言がキリストの復活であります。
新しい人間による新しい世界の創造、それが復活において高らかに、神は宣言されたのです。この世界はキリストの十字架と復活によって古い世界から新しい世界へと転換しました。もはや古い世界に逆戻りすることはありません。
私たちはすべてキリストの十字架と復活によってもたらされた新しい世界の光のもと生きています。信仰者はこの光を見ています。いかに暗雲が垂れ込め、大雨が降ろうとも信仰者はその上にあるキリストの復活の光を見るのです。
ヘブライ人への手紙11章1節では「信仰とは見えない事実を確認することである」と言われています。私たちは雲の上にある光の世界を直接見ることはできません。
でもどんな分厚い雨雲が地上を覆っていても、その上は晴れているのも事実です。
そういう見えない事実を確認するのが信仰です。雨雲の上にあるキリストの光を見て、どんなときも希望を失わず、前向きに復活のキリストと共に歩んでいきたい。

2011年04月17日「ペトロの裏切り」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ルカによる福音書22章24~34節

説教要旨:
今日の箇所は最後の晩餐の箇所です。
主イエスの受難がいよいよ迫っているのに、弟子たちは「自分たちのうちでだれが、一番偉いだろうか」と話し合っているのです。この時点では弟子たちはまだ主の十字架を理解していません。想像だにしていません。
イエスがイスラエルの王となられたとき、誰がイエスの次に偉い地位につくのかということに関心がいっているのです。情けない話です。
そんな中、主はシモン・ペトロが裏切ることを予告します。ペトロはこの時点、自分がイエスを裏切るなど思ってもいません。最後までイエスに従う決意に揺らぎはありません。でもイエスはすでにこのペトロの一見強そうに見える信仰の裏にある弱さをよくご存知でした。そのために主イエスは「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」とペトロにいわれたのです。事実ペトロはのちに、イエスを裏切り、3度もイエスを知らないといったのです。
私たちもペトロと同じような弱さをもっています。そのときが来れば、簡単に前言を翻し、違ったことをいってしまう者であります。危機的状況の中では、信仰さえも大きく揺らぐこともあります。
でもそんな弱い私たちでありますが、主イエスは私たちのためにたえず祈っておられます。
この主イエスの祈りによって私たちの弱さは支えられ、強められ、再び主に従う者へと造り変えられるのです。

2011年04月10日「ナルドの壺」渡辺敏雄牧師

説教箇所:マルコによる福音書14章3~9節

説教要旨:
ここに一人の女性が登場しています。彼女は高価な香油を主イエスの頭に注ぎかけるということをします。当然その女の行為に対して抗議が寄せられます。
無駄使いであるとの指摘です。同時にそれを売って貧しい人に施すことができたではないかと女を咎めるのです。私たちもこのような反応をするのではないのでしょうか。
確かに常識的にはそうであります。でも彼女のした行為の時が今問題であるのです。
もしこれが主イエスの神の国宣教の開始当時であれば、あるいはエルサレムに入る前であれば、主は女の行為を咎め、貧しい人に施すことを求めたことでしょう。
でも今主イエスは十字架を目前にしています。このときを逃せば、もう2度とこのような行為をすることはできないのです。
それゆえに主イエスは女の行為を受け入れました。さらに「良いことをしてくれた」とさえ言われたのです。
彼女の行為は十字架への準備であったのです。誰も彼女の他に主の十字架への準備をしてくれた人はいなかったのです。弟子のペトロなどは十字架を否定さえしたのです。
私たちの人生において、この機会を逃したら2度やってこないときがあります。
洗礼のときなどはそうではないでしょうか。振り返ってみて、あのとき洗礼を受けたがゆえに、今教会につながっておられる、もし逃していたら、教会につながることもなかったであろうにとの思いをお持ちの方もおられるのではないでしょうか。
私たちは洗礼のときだけでなく、毎日神のときを活かしているのかどうか問われています。

2011年04月03日「記念としての小屋」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書17章1~13節

説教要旨:
今日の箇所でイエスの弟子たち:ペトロ、ヤコブ、ヨハネは不思議な経験をいたします。
イエスの姿の変容だけでなく、モーセやエリヤと出会うという経験をするのです。
モーセもエリヤもイスラエルの歴史において重要な役割を果たした人物であります。
その尊敬に値する2人に生きて会えることは通常ではありえないことであり、感激を引き起こさせます。
ペトロは特に感激したようで、イエスを含め3人のために3つの仮小屋を建てたいと申し出ます。
ここにはペトロの願いがあります。小屋を建て、しばらく3人と一緒に過ごしたい。そしてここで、ペトロはモーセとエリヤと会ったことを記念したい。できるなら碑を刻み、いつまでも後世に残るものとしたいとの願いから、このような提案をしたのです。
しかし神の答えは否でした。神は言われました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。
これに聞け」と。「これに聞け」とはイエスに聞けということです。イエスに聞けとはイエスに従えということです。イエスの受難の道をあなたがたも一緒に歩めということです。
でも弟子たちは相変わらずイエスの受難について勘違いしていました。
イエスご自身が受難するのではなく、今日の箇所では洗礼者ヨハネであると思ってしまったのです。
ここでもイエスの受難の道に対して無理解な弟子たちの姿が見えます。
3つの小屋を建て、高い山での素晴らしい経験をいつまでも続けたいというペトロに対して、神は、山を下り、受難の道を行かれる御子イエスに従えと言われました。
私たちも受難節の季節、主イエスのゴルゴタへの道を主とともに歩みたい。