2011年12月25日「闇に光が」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ルカによる福音書2章1~12節

説教要旨:
今日の箇所で羊飼いにメシアが生まれたことが告げられました。
不思議なことです。当時の常識から言えば、どうして羊飼いなどにメシアの誕生がまず告げられねばならないのか理解に苦しむところであります。
なぜなら彼らは律法を守ることができなかったので、当時の社会において罪深い者とみなされていたからであります。
律法をどれだけ守ったかどうかで罪深さの程度が測られていたからです。
清いメシア誕生は、もっと正しい人たちのところで告げられるべきであると考えられていたからです。
当時の社会においては正しい人とはファリサイ派の人たちが代表的な人でありました。
またファリサイ派も自分たちに主の栄光が現われ、自分たちにメシア誕生が告げられてしかるべきである自負していたのです。
しかし神の御心はそうではありませんでした。羊飼いたちは自分たちは神の救いから遠い存在として思っていました。自分たちは闇の中に生きる者として苦しんでいました。
しかし世間から罪深いとみなされている羊飼いたちのところにメシア誕生が告げられ、主の栄光が彼らの上に照り輝いたのです。
神の栄光は高慢な心をもった者にではなく、自らを空しくする者の上に照り輝くのです。

2011年12月18日「聖霊による受胎」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書1章18~25節

説教要旨:
今日の箇所は、聖霊によってメシア(救い主)がマリアの胎に宿ったことが告げられています。
私たち人間の命は聖霊によって命を与えられるのですが、なぜそのことがわざわざ今日の箇所で記されているのでしょうか。
マリアが処女であったから、その処女に人間の命が宿ることは人間わざではなく神のわざ(聖霊のわざ)であることを言うためであるのでしょうか。
それもあるでしょう。
しかしもっとも重要なことは人間の胎を通って神の御子イエス・キリストはお生まれになられたということではないのでしょうか。それこそが聖霊によって宿ったと言われる大切な意味ではないのでしょうか。
主イエスは神の子であるから、人間の胎など通らなくても、この地上に登場することもできたはずです。むしろそんな無駄な時間をかけるのではなく、いきなり30歳ぐらいの姿で登場し、いきなり神の国の福音を宣べ伝えてもよかったはずです。しかしそうではなかったのです。
フィリピ書2章7節にはキリストは「自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じ者になられました。
人間の姿で現われ」と記されています。人間と同じ者になった、人間の姿で現われたということには、他の人間と同じように、人間の胎を通って生まれたということが含まれています。
それほどにインマヌエルの神であるのです。「神は我々と共におられる」という凄さは母の胎にまであてはまることとしてあるのです。罪深い人間の内部にまで宿ろうとされる神、それほどまで私たちと共におられようとされる神の恵み、それこそ聖霊によって宿ったと言われなければならない奇跡がメシア誕生にはあるのです。

2011年12月11日「戸をたたく神」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネの黙示録3章14~22節

説教要旨:
待降節は主が来るのを待つときですが、今日の箇所ではすでに主は来ています。
主は遠くに立って私たちが主へと来るのを待つのではなく、すでに私たちのところに来て戸をたたき、私たちが開けるのを待っておられるのです。
それなのに私たちは、なかなか戸を開けようとはいたしません。なぜなら戸をたたいている方が主であるとは信じないからです。主が「わたしは救い主である」と宣言しているにもかかわらず疑っているからです。
私たちがなかなか戸を開けないにもかかわらず、主は辛抱強く戸をたたき続けているのです。
私たちが戸をたたく方が主であると認め、信じ、戸を開けるのを待たれているのです。
主が私たちの拒絶にもかかわらず、なおも戸をたたき続けるのは一重に私たちを救おうとする主の愛からであります。
私たちを愛してやまない主の熱情があります。そんな主の熱情、愛に私たちが打たれるまで主はたたき続けるのです。そして私たちが主の熱き愛に気付き、戸を開け、主を迎え入れるとき、私たちに新しい命が注がれます。その命は主の愛に応える私たちの熱き愛を内に秘めた命です。
主の愛に私たちが燃やされるのです。

2011年12月04日「神が目を留めてくださる」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ルカによる福音書1章46~56節

説教要旨:
マリアは主を讃美しています。それには理由があります。
それは主が「目を留めてくださった」からであります。
待降節は主が目を留めてくださっておられるを確信し、そして目を留めてくださっておられるだけでなく、実際に私たちのところにやってきて、私たちと共におられることを待つときでもあります。
目を留める仕方もいろいろあります。人の弱点や欠点ばかりを探すために目を留める仕方もあります。主はそうではなく、愛ゆえに目を留めるのです。
主の目の留め方は愛ゆえであります。救うことを目的として目を留めるのです。
なぜ主はマリアに目を留められたのでしょうか。それはマリアの低さにあります。
マリアの低さはまず身分的な低さにあります。
差別され、抑圧された女性の一人としてのマリアの姿があります。
ただそれだけでなく、その心においても主に低くぬかずく者でもあったのです。
そのことでマリアは主によって目を留められ、高められるのです。
主は低くぬかずく者のところに来て共に住まわれます。
主が共に住まわれることで、私たちは天へと高められるのです。
一方、主は驕り高ぶる権力者を低くされます。驕り高ぶる者の様は神のごとくなろうとする様であり、それは主の御心ではありません。ゆえに主はその人を打ち砕きます。
待降節にあって、私たちもマリアのような姿勢で主のご降誕を待つ者でありたい。

2011年11月27日「主の到来の待望」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マラキ書3章1~5節、13~20節

説教要旨:
今日からアドベントに入ります。メシアの到来を待ち望むときであります。
今日のマラキ書には、そのメシアの到来が預言されています。
でも預言されているメシアは怖い裁きを伴ってやってくるように描かれています。正しくない者に対しての裁きは容赦なく臨みます。
神に仕える者と仕えない者との峻別が言われています。
そんな神を前にして私たちは、神の裁きに誰が耐えうるのかと思ってしまいます。
一体私たちは神の御前にあって、正しいと主張できるのでしょうか。主張できる資格をもった者など誰もいません。
誰もが火に焼かれるしかない者であります。
そんな私たちでありますが、クリスマスにやってきたメシアはそうではありませんでした。
愛と憐れみに満ちたメシアでありました。すなわちイエス・キリストでありました。
本来なら罪ゆえに神の御前に滅ぶしかない私たちでありますが、神はそんな私たちを見捨てず救おうとされ、愛する御子イエス・キリストを私たちに与えられたのです。
私たちの罪をゆるしてくださいと神にとりなすことは人間でもできますが、罪を贖い、ゆるすことは人間にはできません。神のみができることであります。
ゆえに私たちは、絶大な権力をもった超人的な人間をメシアとして待ち望むのではなく、罪を贖い、ゆるすメシアを待ち望むのです。そこに私たちの本当の救いがあるのです。
どんなに力をもった人間でも私たちの罪を贖い、ゆるす力はもっていないのです。

2011年11月20日「神は愛なり」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネの手紙一、4章13節~21節

説教要旨:
18節で「愛には恐れがない」「完全な愛は恐れを締め出します」と言われています。
ここで言われている愛は神の愛です。神の愛には恐れがないのです。
なぜなら神は私たちの罪を贖い、ゆるす御方であるからです。
神は私たちの罪過ゆえに、懲らしめとしての罰を与える御方ではありません。
そのことが御子イエス・キリストの十字架によって示されたのです。
御子イエス・キリストは十字架で私たちに代わって私たちの罪を負われ、罪を贖い、私たちの罪をゆるされました。
だから私たちは恐れなく神に近づくことができるのです。
これがもしそうではなく、私たちの罪に対して絶えず厳しい罰をもって臨む御方であるなら、私たちは神に近づくをことを恐れます。できるだけ遠ざかりたいと思うことでしょう。
そのような神を私たちは愛することができるでしょうか。
神はまず私たちをこよなく愛していることを十字架で示されました。裁くだけの神ではなく徹底的にゆるす神として私たちの前に現われたのです。
私たちはただ漠然と神を愛するのではないのです。十字架に現われた神を愛するのです。
十字架で現われた神を愛するには、神の愛がうちに宿らなければなりません。
それが洗礼において起こります。
またその人のうちに宿る神の愛は神を愛するだけでなく、兄弟姉妹を愛する愛ともなります。
ある人が「神を愛している」言いながら、兄弟を憎むなら、それは神の愛がまだその人のうちに充満していないからであります。あるときは兄弟を愛し、またあるときは憎むという状態であるのです。あるいはある人を愛し、ある人を憎むという中途半端な状態であるのです。
悲しいかな、私たちの現実はそんなものです。でも神は聖霊でもって神の愛を充満させようとされておられます。ですから私たちは悲しい私たちの現実を祈りのうちに聖霊によって変えてもらいましょう。
そのように欲するなら、祈るなら、神は確実に私たちを造り変えてくださるのです。

2011年11月06日「終末の希望」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネの黙示録7章1-17節

説教要旨:
天使たちによって額に刻印を押された者たちの数が14万4千人であると記されています。
この数は象徴的な意味で言われているのであって、いかに多くの人々が刻印を押されるかを言わんとしているのです。そしてそれらの人たちは白い衣を身につけて神を賛美していたのですが、白い衣はキリストの十字架の血で洗って白くされたものであります。すべての罪が贖われた証拠であります。御国において私たちは罪を犯すことはなく、白い衣のままで神を賛美するのです。
そして白い衣は罪によって汚れることがないだけでなく、朽ちることのない衣であります。
朽ちることのない白い衣を着せられているということは言い換えれば、永遠の命をいただいているということであります。罪の支払う代価が死であるなら、その罪がすべて贖われるときは、死から私たちは自由にされるということです。すなわち永遠の命が与えられるのです。
そして御国においては、飢えること、渇くこともなく、どのような暑さを襲うことのないのです。
キリストご自身が私たちの牧者となり、命の水の泉へ導き、目から涙をことごとくぬぐわれるのです。
その喜びはどんなに大きいことでしょうか。人生には涙がつきものです。その流した涙はすべて神が拭い取ってくださる。御国では、もはや涙に満ちた人生の道を歩む必要はないのです。
私たちは、とどまるところを知らないかのように流れてくる涙を飲むのではなく、生ける命の水を飲むことになるのです。

2011年10月30日「誇りと思い上がり」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ガラテヤの信徒への手紙6章1~5節

説教要旨:
ガラテヤ教会において誰かが罪を犯したのですが、その罪を糾弾する「霊に導かれて生きている」と誇っている人々がいたようです。彼らは律法主義的信仰者であります。裁く心が赦す心よりも勝っている人々でありました。
自分は律法に従って正しい生活を送っていると彼らは思い上がっていました。罪を犯す者を赦す前に、裁くことに熱心でありました。それも柔和な心で裁くのではなかったのです。
裁くことはその人の罪の重荷をその人の責任として負わすことになります。自分には関係ない罪の重荷として突き放すこととなります。とても互いに重荷を担うことなどできません。
確かに犯した罪の重荷はその人が本来なら担うものとしてあります。でも担い切れない重荷もあります。
そんな重荷を主イエスは十字架ですべて担ってくださいました。
裁く人も罪とは全く無縁で生活しているのではなく、罪を犯すはずですが、その罪の重荷を主イエスによって担ってもらったはずであります。にもかかわらずそのことを忘れ、またかつての律法主義的生き方に戻ってしまい、人を裁くことに熱心になっていたのです。
パウロは、そんなことではいけない、自分の行いを吟味してなさいと言うのです。あなたも罪の誘惑に日々遭っているはずだ、そして誘惑に負け、罪を犯しているはずだ、だとすれば、ただ人を責め、厳しく裁くことに熱心でいいのですか。
共に主イエスの十字架の血潮によって罪赦される者としてあるはずではないのか。
だとすれば互いに赦し合う関係(互いに重荷を担う関係)に立つことが必要なのではないのかと問うのです。そのことで「互いに愛し合いなさい、赦し合いなさい」というキリストの律法を全うすることになると説くのです。
私たちもしばしば律法主義主義的な信仰に陥ることがあります。たえず私たちは主の十字架にへりくだり自分の行いを吟味し、自らの罪を告白し、共に罪赦された者として互いに受け入れ、主のゆるしの恵みのもと生きていきたい。

2011年10月23日「自分を無にして」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:フィリピの信徒への手紙2章1~11節

説教要旨:
2節で「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてほしい」とパウロは言います。この言葉の背後には、フィリピの教会においてなんらかの対立があることが分かります。その対立を克服するためにパウロは互いに謙遜であるべきことを説きます。その説く根拠にキリストを置きます。キリストの姿を描きます。6節以下です。
キリストが私たちの救いのためにいと高きところからこの地上に降りて来られ、自らの地位と栄光を譲渡され、自分を無にしたことをパウロは示します。
それほどに神は私たちを愛しておられるのです。
では罪深いこの世の只中に私たちの救いのために来られ、罪深い私たちと共に歩まれたイエス・キリストは一体誰に自らの地位と栄光とを譲渡されたのでしょうか。
父なる神でありましょうか。いや違います。他ならぬ私たち人間にであります。私たちに神の子としての地位を譲渡されたのです。
私たちはキリストを救い主として信じることにより、神の子とされます。また神の栄光の中で最も大きな栄光である愛を私たちに譲渡されたのです。神がキリストを通して私たちに譲渡された愛を受け取るには、私たちの自我を神へと明け渡さなければなりません。
自我に代わり神の愛で内を満たしてもらうことで教会内部の対立も克服されるのです。
自我が内に満杯であると神の愛に満たされることは至難のことです。
自我が打ち砕かれるには、私たちは十字架に向かう必要があります。
十字架の死に至るまでへりくだり、従順であったキリストに結び付けられて、私たちははじめて謙遜になりうるのです。また自分を無にすることがきるのです。

2011年10月09日「愛と憎しみ」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネの手紙一、2章1~11節

説教要旨:
ヨハネは「わたしの子らよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです」(1節)と申しています。私たち罪ある人間が罪を犯さないということは不可能なことに思われます。でもヨハネは可能であることを語ります。
そのための鍵がイエス・キリストです。全世界の罪を贖う方イエス・キリストです。罪を犯さないような者になるには、大前提として罪を処理する方、罪を償う方を必要とします。その御方イエス・キリストがあってはじめて、私たちに罪を犯さない可能性が生まれるのです。ヨハネは神の愛に生きる人を求めます。神の愛に生きるには、キリストの贖罪を必要とします。自己愛にしか生きえない私たちの罪が、キリストの十字架の血潮によって贖われて、新たな道へと踏み出す。これが聖化の道です。
それは、神の愛を聖霊において内に宿すことで生まれる道です。自力での道ではありません。
でもその聖化の道を歩んでいるはずにもかかわらず、それとは反する信仰者がいたのです。
兄弟を憎むような信仰者がいたのです。そのような者は光の中を歩んでいるのではなく、闇の中を歩んでいる者であるとヨハネは言います。
でもそのような闇の中を歩む者も、なお主の憐れみを乞い、悔い改めるなら、贖い主イエス・キリストが臨み、罪ゆるされ、光の中を歩む者へと造り変えられるのです。

2011年10月02日「父と子の交わり」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネの手紙一、1章1~10節

説教要旨:
3節「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです」と言われています。
「わたしたちとの交わり」とは、その根源を父なる神と子なるキリストとの交わりにもっています。
その父なる神と子なるキリストとの交わりは愛の交わりであります。
その愛の交わりをあなたたちとわたしたちとの間で持つために命の言葉であるキリストをヨハネは伝えると言うのです。
父と子の愛の交わりは、御子キリストを通して私たち人間相互の愛の交わりとなります。
キリストなしには、人間相互の愛の交わりは成立いたしません。
なぜなら現実の私たちの姿は罪びとであるからです。罪ある者同士が父と子の交わりに類比する愛の交わりを形成することはできません。
私たちの罪が贖われなければなりません。その罪の贖いのためにキリストは十字架で死なれたのです。
罪の贖いを受けるためには、まず私たちは自分が罪びとであることを告白しなければなりません。
罪の告白において十字架の主イエスは罪を贖い、ゆるし、私たちに新たな命を与えます。
その命は父と子の交わりに類比する愛の交わりに生きる命です。そしてその命は命の言葉であるキリストに従う生き方であります。それはまた永遠の命へと繋がるものであるのです。

2011年09月25日「主の言葉の力」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:使徒言行録19章8~20節

説教要旨:
パウロのエフェソ伝道が始まりました。この福音宣教においてキリスト教に入信する人もおり、また非難する人もいました。このように福音の真理に対して、大まかに二つの反応が起こりますが、そのほかにも、信じてはいないが、主の御名を商売に利用する人がいます。
それが13節で登場するユダヤ人の祈祷師たちでありました。
パウロが行った奇跡を自分たちも行わんとして主の御名を唱える者もいたのです。
彼らは主イエスを信じてはいません。にもかかわらず主の御名を唱えれば奇跡が起こると思ったのです。奇跡を起こし、その見返りとして報酬を目当てにしたのです。
でも主の御名を心から信じていませんから、奇跡など起こるはずなどなく、逆に悪霊に襲いかかられてしまうはめになったのです。
そのことで主の御名が崇められるようになったのです。そして多くの人が罪を悔い改め、信仰に入ったのです。
神のなさることは不思議です。確かにユダヤ人の祈祷師たちによって主の御名が汚されたのですが、そのままで終わるのではなく、多くの人から主の御名が崇められることが起こったのです。
ここに万事相働いて益となす神の御業を見ることができます。
さらに魔術師はその類の書物を焼き捨てることが起こります。主の御名が崇められるところに、魔術、呪術の類は退かざるをえません。
そして「主の御言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった」(20節)のです。

2011年09月18日「イエスはどこから来たのか」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書7章25~44節

説教要旨:
キリストがどこから来たのかを知ることはイエスがメシアであることを知ることでもあります。
ファリサイ派の人々はイエスの肉的な出身地は知っていました。それはベツレヘムややガリラヤでありました。
でも本当のイエスの出身地を知ることができなかったのです。
イエスは神から来ていること、そして人々を救うために来ていることを知ることはなかったのです。
神から来ていることを知らないから、メシアとしてイエスを認めることができず、またどこへということも分からなかったのです。
私たちは「どこから」と「どこへ」という問いの間に生きているといえます。
その問いは私たちのアイデンティティーにかかわることだからです。
「どこから」は母の胎からとか生まれた場所や以前に住んでいた土地を答えることでしょう。
しかし「どこへ」となるそうはいきません。究極の「どこへ」は死の時にやってきます。
元気で生きているときは、「どこへ」という問いに答えることができる場合がありますが、死のときには、明確に答えることができるでしょうか。
明確に答えることができる場合は、イエスを神から来たメシアであることを知り、受け入れるときです。
神の御子イエス・キリストは私たちの救いのために十字架で死んで、3日目によみがえりたもうた。そして40日間弟子たちの前に現れ、そして父なる神のもとへと昇られた。何のためか。私たちのために天に永遠の住まいを用意するためであります。
ですから死んだ後に私たちはどこへ行くのかとの問いはイエス・キリストにおいて明らかにされているのです。
イエスをただの人間として見ているかぎり、メシアとして信じられないなら、死後「どこへ」という問いは、宙に浮いた状態になってしまうのです。イエスをメシアとして信じるとき、私たちの「どこから=神から」も「どこへ」という問いも真に解決するのです。

2011年09月11日「信仰の転換」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:使徒言行録17章16節~34節

説教要旨:
パウロが生きた当時のアテネは偶像の神々に満ちていました。
それは今日の日本の姿でもあります。どうしてこうも多くの神々が生まれるのでしょうか。
それは人間を中心にして考えていくとそうなるのです。私たちは自分にとって都合のいいものを欲しがります。しかしそれを手に入れることが自分の力ではできないとき、他力本願になります。
その他力本願も人間の力では、無理となりますと、人間を超えた神を求めることになるのです。
そして様々な願望と欲望を満たすために、そまざまな求めに応じた神々が造られていくのです。
それらの神々は実は人間の願望が投影されたものであり、神への信仰というよりも、自分への信仰でしかないのです。自分が神になっていると言ってもよいものであります。
聖書の神はそうではなく、人間がいなくても存在する神です。人間が神によって造られるはるか前から存在する神です。その神によって私たちは皆知られているのです。
私たちが神を知る前から神は私たちを知っているのです。
この信仰は信仰におけるコペルニクス的転換を意味します。地球(自分)が中心であり、その周りを太陽(神)が回っていると考えから、太陽(神)の周りを地球(自分)が回っているのだと知るような事柄であるのです。
神が主体であり、人間は客体であります。私たちは神によって自分は一体どういう者であるかをはじめて知るのです。
聖書で悔い改めとは方向転換することです。いままでの神が客体で、自分が主体であるとの生き方から方向転換して神が主体であり、自分は客体であることを知り、また神が絶対であり、自分という存在はこの地上では相対的な存在であることを認め、その神の前に忠実な僕として謙虚に生きることが求められているのです。

2011年09月04日「神の風呂敷」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:使徒言行録10章1~33節

説教要旨:
今日の箇所でローマの百人隊長コルネリウスが登場してきます。
その彼の家にキリストの福音が届けられます。
そこに至るプロセスが面白い。まずコルネリウスに神は幻を見せます。
ペトロのところに行って、自分の家に来るように言えというものです。
最初は何のことだろうと思ったことでしょう。
会ったこともない見ず知らずの人を自分の家に招けといわれると私たちは躊躇することでしょう。はっきりと意味が示されているならまだしもですが。コルネリウスは神の言葉に困惑しつつも従います。
神はコルネリウスにまず幻を通してペトロとの出会いを用意すると同時にペトロにもコルネリウスとの出会いを幻において用意します。
それは天空が開き、大きな布のような入れ物が下りて来るというものです。
そのいわゆる風呂敷の中にはあらゆる動物が入っていたのです。
その中には律法では穢れた動物と言われる動物も入っていました。
不思議な幻です。ペトロはその意味するところが分かりません。
神はコルネリウスの場合にもペトロの場合にも、最初から言わんとする意味を告知していません。でも最終的に二人はその意味を知ることになるのです。
このように神は最初からその出会いの意味を示さないということがあります。
でも神が出会わしめたもう出会いであれば、必ずその意味が最終的には分かるときが来ます。私たちはそのときを諦めずに辛抱強く待つことが必要です。
ではコルネリウスとペトロとの出会いの意味するところは、一体何でありましょうか。
それは神において民族の垣根はないのだと言う事です。もっと言えば神においては救いはすべての人に向けられているのだということです。清い民とか穢れた民という区別はないということです。
当時はユダヤ人と異邦人(穢れた民とユダヤ人から見なされていた)は基本的には交際していませんでした。
垣根が両者の間にはあったのです。それが二人の出会いにおいて現実に取り除かれたのです。
天空からの大きな布(風呂敷)は実は神の救いの布を意味していたのであります。

2011年08月28日「神の不思議な業」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:使徒言行録8章26節~40節

説教要旨:
フィリポはサマリアでの伝道で大きな成果をあげました。それで彼はもっと大きな成果をあげたいと思っていたことでしょう。しかし神が次に遣わしたのは、伝道の成果などあがりそうにない荒野でありました。人の住まないようなところに行って伝道せよと神は言われるのかと抗議もしたくなりそうですが、フィリポは抵抗もせずにただちに荒野へと向かいました。
すると今度は「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と命じられます。一体何がそこで待っているかフィリポにはさっぱり分かりません。フィリポは「なぜ馬車を追いかけなくてはならないのですか」と神に問うことなく、命令に従います。
そして追いつき、馬車に乗っている人に出会います。その出会った彼はイザヤ書を読んでいました。
彼はフィリポに言います。「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と。
フィリポはここで初めて自分がここへ導かれた理由を悟ります。このエチオピアの高官で、宦官である人に伝道するために、ここに導かれたのだと分かるのです。
そして宦官が読んでいた箇所はイザヤ書53章でありました。まさにメシア=キリスト預言の箇所であります。
伝道するには、どんぴしゃりのタイミングであります。人間の側のタイミングではなかなかこんな具合には行きません。
神の業によるとしか言いようがありません。
そしてフィリポの解き明かしを通して宦官は洗礼を受けることへと導かれたのです。
洗礼のあと、聖霊はフィリポを宦官の前から連れ去ります。
この物語を通して私たちは終始神が主導して宦官の洗礼へと導いたことが分かります。
フィリポはその神の業に用いられたのであります。
神のなせる業には、最初、神は何を意図しているのか分からないことがありますが、最終的には素晴らしい業をなしてくださったことを私たちは見ることができるのです。

2011年08月21日「友なるイエス」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書15章11~17節

説教要旨:
13節「友のために自分の命を捨てること、これ以上大きな愛はない」と言われています。
自分の命を友のために捨てるような人は果たしているのでしょうか。まずいないのではないでしょうか。
聖書はこのような友はイエス・キリストであることを告げています。キリストのみであると言っていいでしょう。
事実イエス・キリストは十字架で自分の命を私たちの救いのために捨てられました。
そのことで私たちは新たな命を得ています。新しい命は十字架の愛の支配の下に生きる命です。
この十字架の神の愛から私たちを引き離すことは何ものもできないのです。
人生においてイエス・キリストを救い主として発見し、イエス・キリストを真の友としては受け入れた人が幸いです。
その人は永遠の命を得ます。この世の他のどんな発見も永遠の命を私たちに与えるものではありません。
また人生のどんな時にもイエス・キリストは共にいてくださいます。共にいて慰め、励まし、癒し、支えてくれています。
人間の友はそうはいきません。いつも共にいることなど不可能なことです。
艱難、苦難の時においても主イエスは私たちと共にいます。むしろ苦難の時こそ、私たちにより近くいまし、私たちを御手において支えてくださいます。そのことで私たちは人生の荒波を乗り越えることができます。
人生の荒波を乗り越え乗り越えしつつ、私たちは一歩一歩永遠の命へと導かれていくのです。

2011年08月07日「キリストを模範に」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:使徒言行録7章44~60節

説教要旨:
ステファノは、今日の箇所で、神殿信仰を批判しています。
なぜなら当時の神殿信仰は、神殿が神と同じような位置を占めており、明らかにモーセの十戒の第一戒に違反していました。主イエスもまた神殿信仰を批判し、やがて神殿は崩壊するときが来ることを語りました。その主の批判の延長線上にステファノの批判もあります。
この批判に対して、人々は怒りました。ステファノは身の危険を感じます。
しかし彼は天を見上げ、神の右に立っておられるイエスを見たのです。
ステファノが人の子=主イエスが見えると言うと、人々は耳を手でふさいだのです。
それは聞きたくないことでした、そしてステファノに石を投げつけはじめたのです。
私たちは危機にあるとき、なすべきは天を見上げるということです。主イエスへと目を向けるということです。そしてそこから語られる言葉を聞くということです。
聞きたくない言葉でも耳を手でふさがず、聞くことです。
ステファノはどんな言葉を聞いたのでしょうか。それは主に命を預けるということと、迫害する者たちをゆるすということでした。
普通なら聞きたくない言葉です。もっと違う道を示してほしいと思うのが私たちであります。
でもステファノはそのことを祈ったのです。ですから聖霊の働きなしにはこの祈りはできません。
ステファノに神が働いて、祈らしめているといえるのです。
迫害する者のために祈り、敵を愛することを主イエスは教えられました。その教えがステファノに響いています。
祈りとなって響いています。そしてその響きはパウロにも響き、アッシジの聖フランシスにも、マザーテレサにも、マルチン・ルーサー・キング牧師、南アフリカのマンデラ大統領にも響いています。
私たちも主イエスから発せられる平和の響きを受け取り、他者へと響き伝えていきたい。

2011年07月31日「神の業?」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:コヘレトの言葉8章16節~9章3節

説教要旨:
コヘレトは神のすべての業を観察しました。
なぜならこの世の出来事すべてに神は関わりたもうているとコヘレトは考えていたからです。
この出来事には神のどんな業が働いているのか、どんな意味があるのかと寝ずに考えたのです。
でも結局分からなかった。コヘレトはその労苦に疲れ果ててしまったのです。
そしてその疲れを癒すために、快楽的な生き方へと向かったのです。
でも彼は神を捨てたわけではありません。彼は神なしの人生など考えていません。
ただ神の義に対して懐疑的です。
そのことが9章1~3節で言われています。コヘレトの懐疑の背景には応報思想の崩壊があります。
善人には神の祝福があり、悪人には神の裁きがある。
善は必ず勝利し、悪は滅びる。このような応報思想の下、人生において善を行いつつ生きることが大事である、なぜなら神はその人に良い報いを与えるに違いないとの思いがコヘレトにあっては崩壊しています。
神の業を見極めるための労苦の結果、神の業を応報思想で片付ることができないことが分かったのです。
そのことは明確に主イエスの十字架において示されています。
罪なき御子イエス・キリストが十字架で処刑される。まことに不条理であります。応報思想は完全に崩壊しています。代わりに十字架で示されるのは、神の愛であります。十字架における神の義は神の愛であります。
悪人をも救わんとする神の愛です。
たとえ人の心は悪に満ち、思いは狂っていても、なお神は見捨てず救おうとするのです。

2011年07月23日「人より神に従う」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:使徒言行録5章12~32節

説教要旨:
今日の箇所で使徒たちによるしるしと不思議な業が行われたことが記されています。
そしてここでも「心をひとつにして」いたのです。心がバラバラではしるしと不思議な業は行われません。
また多くの人々がキリストを信じることとなりました。
そのことで大祭司やサドカイ派の人々はねたみを使徒たちに覚えたのです。
前回の逮捕のときは、使徒たちの復活信仰が問題となりましたが、今回は教義上の問題ではなく、単なるねたみという感情レベルのことで逮捕されるに至ったのです。
まったく権力の乱用であります。権力者はどんな理不尽な理由であれ、自分たちにとって不都合な者を閉じ込めようとします。自由を奪おうとします。
しかし神はそれを許さず、使徒たちを天使を通して、牢から解放するのです。
キリストの福音を、また伝道者をいかなる権力者も閉じ込めることはできません。
使徒たちを通して、福音は宣教されねばならないのです。
使徒たちは福音を神殿の境内で語り告げます。そのことに権力者は戸惑い、恐れ、再び使徒たちを逮捕し、最高法院で彼らを尋問し始まるのです。「キリストの福音を語ってはならない」と最初の逮捕で、自分たちが釈放されるときに、大祭司たちから言い渡されたにもかかわらず、
使徒たちは神殿で福音を大胆に語ったのです。
それは人に従うよりも神に従うことを優先させた結果であります。
このようにして福音は伝達されていきます。人に従うことで福音は伝達されません。
神に従うことで福音は伝達され、福音を信じる者が起こされていくのです。

2011年07月17日「前へ向かわしめるもの」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:詩編143編

説教要旨:
143編で、詩人は命の危機に陥っています。危機の中にあって深い淵から救いを求めています。彼は敵から攻撃を受け、裁判に引き出され、死刑の判決を受ける可能性があります。彼は決して自分には罪はないとは思っていません。犯した罪の自覚があります。
その犯した罪が過去において与えられた神の恵みを台無しにするほどのものとして今臨んでいます。
そのような状況下で、詩人は過去の神の恵みに思いをめぐらします。そのことで自らを慰めようとしています。
と同時に彼は今一度神が大いなる恵みを賜り、自分を救ってくれるようにと祈っています。危機の中にあってなお神へと向かっています。
命の危機の中で、意気消沈し、起き上がれないほどでありますが、そこにあってもなお神への信仰を捨てては、いないのです。前向きに神へと祈るのです。
犯した過去の罪が私たちを前へと向かわしめないで足を引っ張ることがあります。前に進もうにも、過去が足にからみつき、前へと足を進めることをできなくさせていることが多々あるのです。
そのような過去から私たちを解き放つものは一体何なのでしょうか。
私たちはそのような場合、どこに逃れていったらいいのでしょうか。
それはイエス・キリストの十字架です。過去の罪の重荷を十字架で降ろすのです。
詩人は危機からの脱出を敵がすべて絶やされることで果たそうと神に祈っています(12節)。
確かに敵が絶やされるなら、詩人は命の危機から救われるでしょう。でも過去の犯した罪はそのまま残ります。
罪の贖いとゆるしが彼にはなお必要なのです。そのことが主イエス・キリストの十字架において起こるのです。
十字架のもと荷を降ろし、身軽くなって、前へと向かうのです。

2011年07月10日「皆一つになって」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:使徒言行録2章42節~47節

説教要旨:
今日の箇所は初代教会が大切にしていた事柄が記されています。
使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることです。
それらの事柄を守るいっぽう、不思議な業としるしが伴っていました。
不思議な業としるし、これは奇跡と言い換えてもいいでしょう。イエスが行った奇跡が弟子たちにおいても行われたのです。
そしてその奇跡の中に、44節「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」ことも含めていいのではないかと思います。
今日の世界においてこのようなことはありません。共産圏の国でもありません。
まさに奇跡的な出来事であります。
でもこの出来事は長く続くことはありませんでした。
長く続くことがなかった理由として終末の遅延があります。
キリストの再臨が明日にでもあるとなると、私たちは物欲から解き放たれます。
物を所有することから自由になれます。
でも終末、キリストの再臨がなかなかやってこないとなると、だんだん明日の生活のことを思い煩うようになります。明日の生活のことを考える、物の所有というエゴが芽生えてきます。そこには人間の深い罪があります。
今日を生きる私たちには終末の切迫感はありません。ですから明日のことを思い煩ってしまうのです。とてもすべての物を共有することなどできません。
ですから初代キリスト教会の姿とは違っています。罪ある人間において、すべての物を共有することは至難の業であります。至難の業でありますが、できるだけ相互扶助の信仰を強められたいと思います。互いに愛し合うということの中に、それは含まれています。
けれども私たちは、物の共有というしるしに無理やり、いやいや集中するよりも、他にしるしを見るべきではないのでしょうか。
46節のことです。皆心を一つにして礼拝を献げ、神を賛美すること、ここに大きな不思議な業としるしを見ることができるのではないでしょうか。
私たちの群れには、年齢も違い、性差もあり、職業の違い、生まれ育った背景の違い、人種や民族の違い、階層の違い、趣味嗜好の違い、など様々な相違があります。
多様な人々が集うています。この世的には到底一つになることができないような集団です。
そのような群れが今朝一つとなって、心を一つにして神に礼拝を献げていることこそが、大きな業としるしとして私たちは見ることができるのではないのでしょうか。

2011年07月03日「キリストを模範に」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ペトロの手紙一、2章18~25節

説教要旨:
18節で、無慈悲な主人にも心からおそれ敬って従いなさい、と勧められています。
さらに「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです」とも言われいます。
なかなか素直に聞き入れることのできない言葉です。
どうしてこのような言葉が発せられるのでしょうか。一つには終末、キリストの再臨の切迫があります。無慈悲な主人から受けた不当な苦しみに抗議するよりも、迫り来るキリストの再臨に備えるがことが何よりも大切であることが背景にあります。しかしそれだけではありません。キリストの足跡に続くことがキリスト者にとって重要であるとの理由です。キリストも不当な苦しみを十字架で受けました。
また私たちも不当な苦しみを無慈悲な主人から受けることがあります。
でも十字架で不当な苦しみを受けられたイエス・キリストが私たちが受けた不当な苦しみを負ってくださいます。キリストの苦しみによってしか私たちは受けた苦しみの傷は癒されることはないのです。
無慈悲な主人に恨みをいだき、憎悪し、さらには殺害したとしても、そのことで怨念は晴らせたとしても、受けた傷は癒されることはないのです。
私たちが人を憎悪するとき、神から離れてしまっています。さまよえる羊であります。
そのとき、私たちは十字架へと帰るべきであります。十字架を仰ぐとき、私たちの憎悪の罪、殺意の罪は贖われるのです。そしてキリストの足跡に続く者として再び歩み始めるのです。

2011年06月19日「父への反抗と服従」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:創世記4章1~16節

説教要旨:
カインの弟アベルの殺人は表面的に読めば、兄カインのアベルへの嫉妬に原因があるように思えます。
カインが嫉妬しなければ、殺すこともないだろうにと思います。でもカインの嫉妬を起こさせたのは、神ではないか。神がどちらの献げ物にも目を留められたのなら、殺人は起こらなかったはずではないかと思います。神の偏愛が殺人の原因となっているとも考えられるのです。
カインはアベルへの嫉妬だけではなく、神に怒りを抱いています。自分の献げ物に目を留めなかった神への怒りです。でもカインは神に抗議の声を上げていません。ただ怒って神に顔を伏せたのです。
いわば面従腹背です。カインの知る神は怖い神です。抗議の声すら上げることのできない神です。
反抗の許されない、専制的な神です。ですからカインの居場所を問われて、「知りません」と答えたのです。
知っていると答えれば、さらに問い詰められ、殺人を犯したことを白状しなければならなくなる。そうしたら「目には目を、歯には歯を」の基準で死罪になるに違いないと思えば、知りませんとしか答えるほかなかったのです。
でも神は誰がアベルを殺したかはよくご存知です。隠し通せるものではありません。とうとうカインは罪を告白し、懺悔します。「わたしの罪は重すぎて負いきれません」と。犯した罪の重さをカインは知っています。
また自分に下される罰に対しての覚悟もしています。でもそのとき、神が告げたことは、怖い神しか知らないカインにとって、まことに意外な言葉でした。それは罪の赦しであったのです。またカインを誰も撃つことのないようにしるしをも神は付けられたのでした。
すでに十字架の主イエスがここに現れています。十字架のしるしがあります。聖書の神は確かに罪に対して怒りを覚える神です。しかし一方罪を犯した人間を赦す神でもあります。カインはこの赦す神を知らなかったのです。
赦されるには罪が処理されねばなりません。その処理を神はひとり子イエス・キリストの十字架を通してなされたのです。
神の怒りをすべてイエス・キリストが私たちに代わって十字架で負われることで、私たちの罪は贖われ、赦されるのです。

2011年06月5日「神の怒りと愛」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マルコによる福音書3章1~6節

説教要旨:
今日の箇所でイエスは怒っています。それは人々の片手の萎えた人への態度に対して、また律法理解に対してであります。さらに彼らのイエスへの秘めた悪意に対してであります。
彼らは片手の萎えた人が癒されようが癒されまいが、どうでもよく、ただイエスを訴えようとしているだけであります。イエスが安息日に病人を癒すかどうかで訴えの口実を見つけようとしているのです。
癒せば、安息日規定の違反となります。訴えの口実ができます。彼らの目は片手の萎えた人にではなく、イエスへと注がれています。そんなとき、イエスは片手の萎えた人に「真ん中に立ちなさい」と言われるのです。
イエスは人々の目を片手の萎えた人へと向けます。
目を向けた彼らにイエスは「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか、命を救うことか、殺すことか」と問いますが、彼らは答えることなく、黙っていたのです。
誰にも分かる簡単な問いであります。にもかかわらず彼らは答えず黙っていた。
安息日遵守こそが、律法遵守こそが彼らの命です。
でもその命は冷たい剣のような人を刺すようなものであり、それが人(片手の萎えた人)を殺すことになるのです。
私たちのかたくなな心は時として人を殺すことがあります。文字通りの殺人ということではなくても、人に致命的ダメージを与えることがあるのです。
イエスは彼らのかたくなな心に怒ると同時、すぐに悲しみをもって彼らに臨まれるのです。
この時点でイエスは十字架へと向かっています。彼らのかたくなな心がイエスを十字架へと向かわしめています。でもその十字架でイエスは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ福音書23章34節)と神にとりなしたのでした。
神の怒りは悲しむへと変わり、その悲しみは神の愛として十字架で結実したのです。
私たちのかたくなな心も神は怒っています。でもその怒りをイエスは私たちに代わって十字架ですべて負われたのです。そのことで私たちは救われたのです。

2011年05月29日「新しい世界の告知」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:使徒言行録11章19~26節

説教要旨:
今日の聖書の箇所は初代キリスト教会がどのようにして、世界伝道へと向かったかが記されています。
当初初代クリスチャンはユダヤ教の枠内で伝道活動をしていました。
ユダヤ人以外の人にキリストの福音を語るということをしてしませんでした。
しかしステファノの殉教以後、事態は変化します。
ステファノの殉教以後、律法に対して自由な態度をとるヘレニスト・ユダヤ人(ギリシャ語を話すユダヤ人)に対して迫害が起こり、彼らはエルサレムから逃れ、各地に散ることになります。その逃れた一つの都市がアンテオキアでありました。
そのアンテオキアで教会ができ、そこにユダヤ人以外にも福音を伝道する人たちが現れたのです。そして21節にもあるようにその異邦人伝道は進展し、主イエスを受け入れる者が多く誕生したのです。ここにキリスト教はユダヤ教という枠を超え、世界宗教へと発展する糸口を見つけたのです。
このことは主の御手が働くことで起こりました。主の御心は世界のすべての民の救いであります。
ユダヤ人という枠が破られることで御心は前進することになりました。
そのことのためにパウロやバルナバなどが主によって用いられることになります。
ユダヤ民族という枠が破られ、世界の民へと福音伝道が進展していくことで、それまでにない新しい世界が誕生し始めたのです。パウロが言うように「もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もない、キリスト・イエスにおいて一つ」(ガラテヤの信徒への手紙3章28節)という新しい世界が明け染めたのです。

2011年05月15日「キリストの支配」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:エフェソの信徒への手紙1章15~23節

説教要旨:
復活後40日に亘って、イエスは人々の間に現れ、そして神の右の座に着かれるために、昇天されました。神の右の座に着かれたことには大きな意味があります。
それはすべてのものを支配する御方として君臨されたということです。
すべてのものの主権者として君臨されたということです。
そのキリストがキリストのからだである教会において満ちておられる(23節)とは一体どういうことでしょうか。
天におられる方がどうして地上の教会に臨在するのでしょうか。
それは聖霊において臨在するということです。ですからキリストの支配は言い換えれば聖霊の支配とも言い換えることができるのです。
支配といいますと何か不自由な待遇を受けるのではないかと思われるかもしれません。
しかしキリストの支配、聖霊の支配は自由であります。パウロは「聖霊のおられるところに自由があります」(コリント第二、3章17節)と申しています。
支配と自由とは二律背反のことのように思われますが、決してそうではありません。
本当の自由とはキリストの支配のもとにある自由です。なぜなら聖霊においてキリストが臨在されるのですから、そこには当然自由があるからです。聖霊が内に住むことで、強制されていやいや行為するというのではなく、
自発的に、自主的に(神学的に言えば、神律的に)喜びをもって行為するのです。
世俗的意味での自由とは違う意味での自由をキリスト者は神より恵みとして与えられているのです。

2011年05月08日「一人も滅びないで」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ペトロの手紙二、3章~13節

説教要旨:
ペトロの手紙が書かれた当時、キリストの再臨の遅延ということが、問題になっていました。神は、キリストの再臨、そして神の永遠の御国の成就ということを約束されたのですが、その約束がなかなか果たされないと苛立つ人たちに対して、ペトロは「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。
そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」(9節)と説くのです。
御国はイエス・キリストの誕生と共に開始されました。
その御国の完成を私たちはイエス・キリストの再臨のときに待つのでありますが、その間の時間に私たちは今生きているのですが、御国の成就に向かっているはずの世界は何も変わっていない、依然として悪がこの世に満ちている現状を見て、当時のクリスチャンは、御国の早急の成就を祈っていたのです。
でもその祈りが叶えられないので、神はキリストの再臨を遅らせていると考え、不満をもっていたのです。
ペトロは、それは神がいじわるして遅らせているのではない、一人も滅びないで皆が悔い改めるようとの愛をもって忍耐されておられるのだと説いたのです。
キリストの再臨の遅延には、神の忍耐強い愛があるということを私たちは知るべきであります。
私たちは、この神の愛に応えて、一人でも多くの人が悔い改め、救われるということに
力を注ごうではありませんか。

2011年05月01日「主とともに歩む」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ルカによる福音書24章13~35節

説教要旨:
ここに二人の弟子たちが登場してきます。彼らはイエスの死によって、人生の目標を失い途方にくれ、人生の敗北者のような虚ろな心でエルサレムからエマオへの道をたどっています。
時は夕暮れです。人生のたそがれどきのような二人の歩みであります。生きる気力が萎えています。
そんな二人にイエスは近づき、語りかけます。
「あなたがたが話していることは何のことですか」と。彼らはイエスの十字架のこと、復活のことを道すがら話していました。でも復活したイエスから話しかけられても、イエスだとは気づきませんでした。
なぜなら復活など信じていなかったからです。
イエスの復活が信じられないということは、また十字架の救いも信じられないということです。
彼らにとって、十字架は敗北であり、闇の世界の出来事でしかありません。でも主の復活を信じることができるなら、十字架は勝利であり、光に満ちた出来事となります。
そこに生きる希望と勇気が湧いてきます。事実彼らは、主が生きていることに気づいたとき、時を移さずしてエルサレムに戻るということをしています。生きる力が湧いてきたのです。
希望に満たされたのです。
主の復活こそを信じることで、私たちは今も生きて働いておられる主の臨在を感じることができます。
主が共に歩いておられることを実感できるのです。弟子たちと同じように生きる力と希望に満たされるのです。

2011年04月24日「新し世界の始まり」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マルコによる福音書16章1~8節

説教要旨:
主イエスが十字架でなくなられたのは、安息日の前の日であります。
安息日の前の日、それは神の天地創造の6日目にあたります。
その6日目に神は人間を造られました。
同じように神は、安息日の前日に御子イエス・キリストの十字架の死を通して、新しい人間を造ろうとされたのです。その新しい人間とは、誰か。
それは十字架の恵みによって生きる人間です。復活の光のもと生きる人間です。
また神は、十字架を起点として新しい世界の創造もされようとされています。
その宣言がキリストの復活であります。
新しい人間による新しい世界の創造、それが復活において高らかに、神は宣言されたのです。この世界はキリストの十字架と復活によって古い世界から新しい世界へと転換しました。もはや古い世界に逆戻りすることはありません。
私たちはすべてキリストの十字架と復活によってもたらされた新しい世界の光のもと生きています。信仰者はこの光を見ています。いかに暗雲が垂れ込め、大雨が降ろうとも信仰者はその上にあるキリストの復活の光を見るのです。
ヘブライ人への手紙11章1節では「信仰とは見えない事実を確認することである」と言われています。私たちは雲の上にある光の世界を直接見ることはできません。
でもどんな分厚い雨雲が地上を覆っていても、その上は晴れているのも事実です。
そういう見えない事実を確認するのが信仰です。雨雲の上にあるキリストの光を見て、どんなときも希望を失わず、前向きに復活のキリストと共に歩んでいきたい。

2011年04月17日「ペトロの裏切り」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ルカによる福音書22章24~34節

説教要旨:
今日の箇所は最後の晩餐の箇所です。
主イエスの受難がいよいよ迫っているのに、弟子たちは「自分たちのうちでだれが、一番偉いだろうか」と話し合っているのです。この時点では弟子たちはまだ主の十字架を理解していません。想像だにしていません。
イエスがイスラエルの王となられたとき、誰がイエスの次に偉い地位につくのかということに関心がいっているのです。情けない話です。
そんな中、主はシモン・ペトロが裏切ることを予告します。ペトロはこの時点、自分がイエスを裏切るなど思ってもいません。最後までイエスに従う決意に揺らぎはありません。でもイエスはすでにこのペトロの一見強そうに見える信仰の裏にある弱さをよくご存知でした。そのために主イエスは「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」とペトロにいわれたのです。事実ペトロはのちに、イエスを裏切り、3度もイエスを知らないといったのです。
私たちもペトロと同じような弱さをもっています。そのときが来れば、簡単に前言を翻し、違ったことをいってしまう者であります。危機的状況の中では、信仰さえも大きく揺らぐこともあります。
でもそんな弱い私たちでありますが、主イエスは私たちのためにたえず祈っておられます。
この主イエスの祈りによって私たちの弱さは支えられ、強められ、再び主に従う者へと造り変えられるのです。

2011年04月10日「ナルドの壺」渡辺敏雄牧師

説教箇所:マルコによる福音書14章3~9節

説教要旨:
ここに一人の女性が登場しています。彼女は高価な香油を主イエスの頭に注ぎかけるということをします。当然その女の行為に対して抗議が寄せられます。
無駄使いであるとの指摘です。同時にそれを売って貧しい人に施すことができたではないかと女を咎めるのです。私たちもこのような反応をするのではないのでしょうか。
確かに常識的にはそうであります。でも彼女のした行為の時が今問題であるのです。
もしこれが主イエスの神の国宣教の開始当時であれば、あるいはエルサレムに入る前であれば、主は女の行為を咎め、貧しい人に施すことを求めたことでしょう。
でも今主イエスは十字架を目前にしています。このときを逃せば、もう2度とこのような行為をすることはできないのです。
それゆえに主イエスは女の行為を受け入れました。さらに「良いことをしてくれた」とさえ言われたのです。
彼女の行為は十字架への準備であったのです。誰も彼女の他に主の十字架への準備をしてくれた人はいなかったのです。弟子のペトロなどは十字架を否定さえしたのです。
私たちの人生において、この機会を逃したら2度やってこないときがあります。
洗礼のときなどはそうではないでしょうか。振り返ってみて、あのとき洗礼を受けたがゆえに、今教会につながっておられる、もし逃していたら、教会につながることもなかったであろうにとの思いをお持ちの方もおられるのではないでしょうか。
私たちは洗礼のときだけでなく、毎日神のときを活かしているのかどうか問われています。

2011年04月03日「記念としての小屋」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書17章1~13節

説教要旨:
今日の箇所でイエスの弟子たち:ペトロ、ヤコブ、ヨハネは不思議な経験をいたします。
イエスの姿の変容だけでなく、モーセやエリヤと出会うという経験をするのです。
モーセもエリヤもイスラエルの歴史において重要な役割を果たした人物であります。
その尊敬に値する2人に生きて会えることは通常ではありえないことであり、感激を引き起こさせます。
ペトロは特に感激したようで、イエスを含め3人のために3つの仮小屋を建てたいと申し出ます。
ここにはペトロの願いがあります。小屋を建て、しばらく3人と一緒に過ごしたい。そしてここで、ペトロはモーセとエリヤと会ったことを記念したい。できるなら碑を刻み、いつまでも後世に残るものとしたいとの願いから、このような提案をしたのです。
しかし神の答えは否でした。神は言われました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。
これに聞け」と。「これに聞け」とはイエスに聞けということです。イエスに聞けとはイエスに従えということです。イエスの受難の道をあなたがたも一緒に歩めということです。
でも弟子たちは相変わらずイエスの受難について勘違いしていました。
イエスご自身が受難するのではなく、今日の箇所では洗礼者ヨハネであると思ってしまったのです。
ここでもイエスの受難の道に対して無理解な弟子たちの姿が見えます。
3つの小屋を建て、高い山での素晴らしい経験をいつまでも続けたいというペトロに対して、神は、山を下り、受難の道を行かれる御子イエスに従えと言われました。
私たちも受難節の季節、主イエスのゴルゴタへの道を主とともに歩みたい。

2011年03月27日「抵抗と思い煩い」渡辺敏雄牧師

説教箇所:ペトロの手紙5章6~11節

説教要旨:
9節では「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」と言われています。
信仰にしっかり踏みとどまるといっても、自分の信仰はとても弱いものであります。
自分の信仰では悪魔に打ち勝つような信仰とはなりません。自分の信仰とは、言い換えれば、それは自力本願の信仰です。そんな信仰で悪魔に抵抗などできるのでしょうか。できません。
自分の信仰、つまり自力の信仰ではなく、イエス・キリストに踏みとどまることが大切なのであります。
イエス・キリストに踏みとどまることで始めて悪魔に抵抗できるのです。
イエスに踏みとどまるとは、言い換えれば「神に何もかもお任せする」(7節)ことです。
神の力、主イエスの力に頼ることです。他力信仰です。神の力強い御手の下に自分を置くことです。
そのことで私たちは思い煩いから解放されるのです。
自力信仰が他力信仰に勝るとき、私たちには思い煩いが増えます。
それは悪魔の餌食となりがちです。そうならないためには、たえず主イエスの下に踏みとどまり、主イエスに私たちに代わって悪魔と戦ってもらうことが大事であるのです。

2011年03月13日「和解の命」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:フィリピの信徒への手紙2章1~11節

説教要旨:
パウロはフィリピの教会に対して「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」と語ります。
パウロはその根拠を主イエス・キリストに置こうとします。
私たち人間の間で、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにすることは困難なことであります。
そのような姿を私たちがとるには、イエス・キリストを必要としているのです。
私たちの自我は、他者に対して利己的にそして高慢な心、虚栄心をもって振る舞い勝ちです。
そのような自我は砕かれる必要があります。その自我を砕くのが、キリストの十字架であります。
フィリピの教会は、パウロの語る十字架の福音を聞いて、キリストを受け入れた者同士です。
主イエス・キリストの十字架の血潮による罪の贖い、罪のゆるしを信じ、受け入れた者であります。
であるからこそ、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせて、思いを一つにすることができるはずであるとパウロは語るのであります。神の憐れみを受け、十字架を受け入れた者であるから、そうなるはずであるとの思いが強くあるのです。
そして具体的にキリストの姿を見せてまいります。それは6節以下であります。
特に私たちの救いのために十字架にまでへりくだった主イエスの姿を見るようにと説いていきます。
私たちも互いに主イエスのように自分を無にし、へりくだることで、互いに和解し、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにする者となりたい。

2011年03月06日「主は生きた石」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ペトロの手紙一、2章1~10節

説教要旨:
今日の箇所では、キリストは恵み深い御方であることと、生きた石であることとが強調されています。
私たちは、恵み深い御方イエス・キリストの味を知った以上、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口などの味とは、本来無縁にならねばならないのですが、罪人である私たちは悲しいかな、それらの罪を犯してしまいます。でも罪人だからしょうがないじゃないかと、それで終わっていたら、私たちは、今も復活し生きたもうて教会の礎となっているイエス・キリストに用いられる生きた石にはなれません。
ましてや生きた石として互いに組み合わされて教会を霊的な家に造り上げることなどできません。
私たちの毎日は罪を犯す生活でありますが、一方ではキリストの恵み深い味も知っている者であります。その恵みの中に罪の赦しの恵みもあります。
私たちは、キリストの十字架の血潮によって罪贖われ、罪赦され、聖化の道へと再び進むことができます。私たちが生きた石となるためには、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口といった罪が、私たちのうちから十字架の血潮によって洗い清められ、取り除かれ、それらに代わってキリストの思いを宿し、御心を行う者へと造り変えられる必要があります。その場がキリストのからだである教会です。
私たちは毎週教会に来て、主の罪の赦しの恵みをいただくことで、生きた石として主によって用いられ、霊的な家としての教会を造り上げていくのです。そして霊的な家を造り上げるだけでなく、キリストの恵みの味を広く世に伝えることも、主によって生きた石として用いられることに含まれているのです。

2011年02月27日「キリストの命」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:コロサイの信徒への手紙3章1~17節

説教要旨:
人は誰でもより良い生き方を望んでいますが、ではそれは一体どういう生き方かとなると分からない、定まっていない人が多いものです。
キリスト教では聖化ということがより良い生き方と深く関係してきます。
聖化、それは今日の聖書の箇所で言えば、「上にあるものを求める」生き方であります。
そのことを聖書の別の箇所でいえば「天に宝を積む」生き方です。
今日の箇所では人生の2つの方向性が示されています。ひとつは地への方向です。
それは欲望がコントロールされないところから出てくる罪に満ちた生き方です。
もうひとつは神への方向です。それは聖霊による生き方です。
復活のキリストの命を聖霊において内に宿し、その命によって上にあるものを求める生き方です。
これは洗礼において開始されていく生き方です。洗礼において、地上的なものを求める古い生き方を十字架につけ、代わりに復活のキリストの命をいただき新しい命に生きる(新生)ことで、必然的に上にあるものを求める(聖化)生き方をすることになります。その生き方から生み出される具体的なものとして12節以下の事柄が勧められているのです。
ここで私たちが気をつけないといけないことは、上にあるものを求めるのは自分ではなく、聖霊において内に住むキリストの命がそうさせてくださるのだということです。
自我の強い私たちには、地上的な生き方しかできませんから、それを自力で押さえ込もうとするとき、ファリサイ派のような窮屈な信仰生活となります。そうではなく、聖霊によって自我が砕かれ、欲望がコントロールされることで上にあるものを求めることができるのです。

2011年02月20日「わたしについて来なさい」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マルコによる福音書1章16~28節

説教要旨:
主イエスは「わたしについて来なさい」と言われます。4人の弟子たちはただちに、この言葉に従いました。でもよく考えてみれば、見ず知らずの人からこのようなことを言われて、素直についていく人などいるのでしょうか。おそらくいないでありましょう。
このことが起こったのは一重に神の言葉であるイエス・キリストの御声ゆえであります。
イエスの言葉には神の権威がありました。律法学者の権威はこの世の権威です。
そこには大きな違いがあります。
主イエスとともにやってきた神の権威が支配する場、それが神の国です。
神の国においては悪霊は場を占めることがでません。
私たちは主イエスの招きの言葉に従うとき、神の国の中へと入ります。
そして主イエスとの交わりにおいて神の国の完成に向けて主とともに前進するのです。
主とともに歩むとき、弟子たちは神の国へと人々を招く使命を主より帯びます。
一人でも多くの人が招きに応じるように主とともに活動します。
私たちもまた弟子たちと同じように主の言葉を聞き、主の招きに応じた者であります。
招きに応じた私たちも、弟子たちと同じ使命を帯びています。
弟子たちのように生活の一切を捨てて従う者ではありませんが、それぞれが置かれた場において主より与えられている使命に生きることが求められています。
主の福音の証し人として主に応答して生きる毎日でありたい。

2011年02月13日「御言葉は滅びない」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ルカによる福音書21章20~36節

説教要旨:
今日の箇所はキリストの再臨のことが言われています。
なかなか素直に受け入れがたいものが信仰者といえどもあるかと思います。
でもキリストの再臨、終末信仰はキリスト教信仰にとって非常に大事なことであります。
なぜなら永遠の命にかかわることであるからです。再臨が信じられないなら、永遠の命もまたないのです。キリストの再臨があって、神の御国が完全に成就し、新しい天と地がなるとき、私たちに永遠の命が与えられ、私たちはそこに永遠に神とともに住むのです。
ですから私たちは終末に関して心する必要があるのです。
今日の箇所で様々な終末の徴が与えられるとイエスは言われます。
歴史の大変動や天体の大変動という徴があると言われます。でもそれは終末の訪れの徴であって、終末そのものではないことに私たちは心する必要があります。終末はイエス・キリストが再臨されるときです。
それが起こってはじめてこの世の終わりとなるのです。
ですから私たちは気をつけねばなりません。天変地異や疫病の流行、大戦争などが起こると多くの偽預言者が歴史上登場し、世の終わりを告げ、人々を惑わしました。
でもこの世は今も続いています。神がこの世の終わりの鍵を握っておられるのです。
決して人間ではないのです。神がキリストを私たちのところに遣わすと決断されたとき、そこでこの世の終わりが到来するのです。
そしてこの世の終わりはまったく突然起こるのではなく、ある徴を伴うと言われます。
そのことは神の私たちに対する配慮といえます。そのことで私たちは終末に備えることができるからです。
しかし備えをするには、徴を見逃さないことが大切となります。
この世の事ばかりに目や心がいってしまっていると、その徴を私たちは見逃してしまいます。
だからイエスは言われるのです。「心の鈍くならないように注意しなさい」(34節)、「いつも目を覚まして祈りなさい」(36節)と。

2011年02月06日「本物と偽物の違い」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:エレミヤ書23章16~32節

説教要旨:
世の中に本物と偽物があるように、預言者にも本物と偽物があります。
今日の箇所では、偽物の預言者が出てきます。彼らは、主の名によって語りますが、実は偽りであり、神の御心を語っていません。
彼らは、バビロニアによって国は存亡の危機にあるのに、「平和だ、災いは来ない」と語ります。そしてその言葉が民に受け入れられます。なぜなら民の願望に沿ったものであるからです。
でも神の御心は違いました。偽預言者によって、このように神の御言葉はないがしろにされるのです。
これまでにも教会の歴史において、この類の偽預言者が多く現れました。
そして民もイスラエルの民と同じように、その言葉に惑わされ、道を誤るこということが起こりました。
本物の預言者は、神の御心を語ります。その言葉が人々にとって聞きたくない苦い言葉であれ、つらい言葉であれ、語り告ぐのが本物の預言者です。エレミヤはその中の一人です。
私たちもエレミヤのような本物の預言者になりえます。ただそれは一重に聖霊によります。
聖霊の満たしなしには、私たちは容易に偽預言者となります。
本物、偽物の違いは、外観においてではなく、その中身において現れます。
信仰者にとって、その中身とは聖霊が内に充満している度合いにおいて計られるのです。

2011年01月23日「主において喜ぶ」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:フィリピの信徒への手紙4章4~7節

説教要旨:
4節には「主において常に喜びなさい」といわれています。
「常に」といわれますと、非常に難しいように思われます。私たちの毎日の生活は、喜びばかりの生活ではありません。悲しみのとき、嘆きのとき、悩みのとき、苦しみのときなどあります。
ではいかにしてそれは可能なのでしょうか。「主において」ということに注意したいと思います。
「主において」でなければ、それは不可能でしょう。
「主において」とは、主との交わりにおいてということです。主の御手のうちにおいてということです。
主イエスは言われました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネによる福音書16章33節)。
罪と死に勝利した主イエスとの交わりが私たちに喜びをもたらすのです。主の御手に私たちは握られているのです。
御手のうちにあるこの交わりは、いついかなるときにおいても誰も取り去ることができません。だから「常に」があるのです。
私たちは日々の生活に将来に対して思い煩いをもちます。今の取り巻く状況が打開困難であり、苦難に満ちているとき、私たちは思い煩います。喜びはそこにはありません。でもそんな状況下においても主イエスは共にいます。その共にいます主に感謝し、既に世に勝たれている主に重荷と苦難の一切をゆだねるとき、
「あらゆる人知を超える神の平和」が私たちに訪れます。そして「あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守る」のです。

2011年01月16日「主の慰め」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:イザヤ書66章7~14節

説教要旨:
今日の箇所では、主の慰めが母性的イメージで表現されています。
人間の慰めの中には、社交儀礼的な慰めもあります。しかし母親の子に対する慰めは、真実なものではないでしょうか。その母と子の関係の比喩で言われる主の慰めもまた
真実なものであります。私たちは勢いのあるとき、順風満帆のときは、慰めなど必要としません。
むしろもっと奮い立つようなことを言ってくれる人を待ちます。
しかしそうでないとき、つまり苦難と試練の中にあるとき、悲しみと嘆きの中にあるときは、心から真実に慰めてくれる人を求めます。信仰者にとって、その人は神であります。
旧約聖書の神は、何か怖い、厳ついイメージを持ちがちですが、決してそれだけではなく、母性的な面ももっているのです。
このような母性的神のイメージはやはりバビロン捕囚期から始まるものであろうと思われます。
国は滅亡し、捕囚の民として異国の地バビロンで、逆境の中で生活しているユダヤの民にとって、母性的神が求められたのも、無理からぬところであります。
預言者イザヤを通して神は母性的イメージで民に対して慰めを語られたのであります。
私たちも苦難と試練の中にあるとき、すべてを包含するような優しい母親のような神に向かい、そして抱かれ、慰められることが必要です。なぜなら主の慰めは真実であるからです。
母親を超えるほどの慰めでもって、主は私たちを抱いてくれます。

2011年01月09日「昨日、今日、明日」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネの黙示録1章4~8節、22章16~21節

説教要旨:
ヨハネ黙示録1章4節、8節には「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」と言い表されています。
その御方はイエス・キリストであります。やがて来られる方はかつておられた方であり、今おられる方です。
このように言われますと、不思議な感じがします。
かつて来られた方が、今おられるなら、どうしてやがて来られることなどあるのでしょうか。
すでに今来ているなら、どうして「主イエスよ、来てください」と願う必要などあるのでしょうか。
主イエスはすでに2000年前クリスマスにおいて来られています。それは旧約聖書に預言された通りでありました。主イエスは旧約で預言されたとおり、そのメシアとしての使命を果たし、父のもとへ昇られました。
今は目に見える形においては、この地上におられません。ではなぜ「今おられ」と言うのでしょうか。
それは、主イエスが自分の代わりに聖霊を私たちのところに遣わすことを約束されたからです(ヨハネ福音書14章16節)。聖霊において主イエスは私たちと共にいるのです。聖霊は確かに目には見えません。
でも聖霊は、風と同じように目には見えないけれでも感じることはできるはずです。
私たちが聖霊を信じるなら、主イエスが今共にいることを実感できるのです。
ですから聖霊において今おられというのが本当のところであります。
ではそのまま目に見えない形のままでずっとおられるのでしょうか。そうではありません。
主が再び私たちのところに来られるとき、目に見える形においてやって来られます。
そのときは、終末のときです。神の永遠の御国が成就するときです。
一切の苦難は終わりを告げるときです。
黙示録が書かれた当時、クリスチャンは激しい迫害の中にありました。ゆえに一刻も早く迫害の終わるときを待望せざるをえませんでした。主が再び来られるとき、それは迫害が終わるときです。永遠の命が実質的に与えられるときであります。そのときを願いつつ、今聖霊において共におられる主イエスに支えられ、慰められ、励まされ、勇気づけられて迫害の中生きていたのです。私たちも原始キリスト教会のキリスト者たちと同じ信仰をもって、この世の苦難に立ち向かっていきたい。

2011年01月02日「キリストと共に歩む」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書21章20~23節

説教要旨:
今日の箇所で、主イエスは弟子のペトロを再び召すのですが、ある一人の弟子のことが気になっています。それは20節にあるとおり、「イエスの愛していた弟子」でありました。
ペトロは自分が一番弟子であり、主が最も愛しているのではないかと思っていたので、気になる存在であったことでしょう。そして彼の今後について主イエスに尋ねるのです。
「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と。すると主は「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるのか。あなたはわたしに従いなさい」と言われたのです。この主の言葉を弟子たちは誤解して、彼は死なないと思ったのです。
ペトロも当然もしできるなら、自分も死なないようにしてほしいと思ったことでしょう。
私たちもそう思うかもしれません。しかし主イエスは、彼は死なないという意味で言ったのではなく、ただわたしに従いなさいということを言われたのです。すなわち言い換えれば、あなたにはあなたの道がある。
その道がたとえ長く生きる道でなくても、主が召す道としてあるなら、その道を行きなさい。
人には主が示すそれぞれの道があるではないか。あの人はどうの、この人はどうのという前に、まず主が召す道があなたにあるではないか、その道を主と共に歩みなさいと言われたのです。私たちにも、それぞれ主が召す道があります。その道をただひたすら主とともに歩む一年でありたい。