2009年8月30日「主イエスを信じなさい」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:使徒言行録16章16~34節

説教要旨
今日の箇所はパウロとシラスがヨーロッパ伝道を開始してまもない頃の出来事です。彼らは3つの出会いを経験します。3つの出会いを通して、私たちは神の不 思議な導きを知ることになります。
一つ目は占いの女奴隷との出会いです。占いの霊にとりつかれていた女奴隷はパウロたちの福音伝道を妨害することをします。一見パウロたちの味方であるかの ように「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」と叫んでいますが、実体は悪霊の叫びであります。悪霊は狡猾です。し かしパウロは正体を見抜いています。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出ていけ」と言って悪霊の追い出しをします。悪霊から解放された女 は占いの力がなくなります。奴隷の主人は金儲けができなくなったことで怒り、パウロたちを捕らえ、牢獄にぶち込むことになります。

この牢獄の中で2番目の出会いが起こります。囚人たちとの出会いです。パウロたちは牢獄の中にあっても、神を賛美ます。普通なら、うるさいと怒鳴ら れるはずですが、囚人たちは怒鳴ることもありません。静かに聞き入るのです。
さらに大地震が起こります。そして牢の戸が全部開いてしまいます。囚人たちは皆逃亡するかと思いきや、誰一人逃亡するものはいません。
不思議なことが起こりました。囚人たちはパウロたちとの出会いを通して人間を超えた御方の臨在に触れたとしかいいようがありません。

さらにこの出来事を通して3番目の出会いが起こります。それは看守と神との出会いです。看守は当然囚人たちは逃亡してしまったと思いました。となる と自分は逃亡させた罰として死刑にもなりかねません。
辱めるを受けるよりも自害しようと看守はします。パウロは看守に自害してはいけない、私たちは誰一人逃亡などしていないと説得します。看守は事態を冷静に 見る中、自分は死ななくてもいいのだと悟ります。

そしてパウロたちに尋ねます。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」。 パウロは言います。「主イエスを信じない。そうすれば、あなたの家族も救われます。」 その言葉を受けて看守とその家族全員が洗礼を受けることになったのです。
誰が女奴隷との出会いから看守とその家族の洗礼へと導かれると予想できたでありましょうか。誰もできなかったことでしょう。そこには神のご計画がありまし た。神のご計画を私たちは当初は理解できないことが多いのです。しかし後になって振り返ってみると、ここに至るまで神の導きが背後にあったのだなと悟るこ とになるのです。万事に相働いて益となす神のご計画を知ることになるのです。

2009年8月23日「信仰の成長」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヘブライ人への手紙11章1~12節


説教要旨
ヘブライ人への手紙11章では旧約聖書に登場してくるいろいろな人物がとりあげられています。なぜとりあげられているのでしょうか。それは私たちの信仰の 模範として、モデルとしてび、倣うためであります。
ヘブライ書の著者は迫害の中にあって、あるいは終末(キリストの再臨)の遅延という状況下にあって、信仰に動揺を覚えている信徒たちを励ますために手紙を 書いています。

旧約聖書の信仰の先達たちをとりあげ、彼らの信仰が究極のところ神への信頼にあったことを思い起こさせています。キリストの再臨の約束、またいかな る迫害に遭おうとも救いは揺るぎないものとしてあること、永遠の命の約束は必ず実現することを確信させ、神に信頼することの大切さを説いているのです。

私たちの信仰においても、動揺するときはあります。旧約聖書の人々も動揺することはありました。しかし動揺しても、最終的には神に信頼し、神にすべ てをゆだねた信仰を私たちは学びべきであります。
神の約束は真実であります。人間の約束は裏切られることがあります。たとえ今は約束の実現が視野に入ってこない状態であっても、必ず神の約束は実現すると いうことを確信し、信仰の生涯を全うしていきたい。

2009年8月16日「パウロの祈り」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:フィリピの信徒への手紙1章1~11節

説教要旨
フィリピの信徒への手紙はパウロが獄中にいたときに書かれた手紙であります。獄中の中、死の危険さえあったときのものであります。そんな状況の中でもパウ ロはフィリピの信徒たちのことを片時も忘れることなく信徒たちのためにとりなしの祈りを献げていました。 それほどにパウロのフィリピの信徒たちに対する愛は強いものがありました。

獄中ということで物理的にはフィリピの教会とは離れていますが、祈りにおいてパウロはフィリピの教会とつながっているのです。私たちも生活において 教会から物理的に離れることはありえます。病気のとき、入院のとき、特別の所用のときなど離れます。しかし祈りにおいてつながるのです。教会のことを覚え て祈る、また教会の人は離れている人を覚え、祈る。そのようにして互いは祈りにおいて、キリストのからだである教会につながるのです。

パウロは3節、4節でフィリピの人々が信仰を堅く守って生活していることに感謝しています。そしてそのことはあくまでキリストの働きによることを確 信しています。
フィリピの人たちの信仰の堅持が自分の力によてではなく、フィリピの人々の力によってでもなく、ただ一重に神の働きであり、神の恵みであることをパウロは 知っていたのです(6節)。パウロはあくまで栄光を神に帰しています。私たちの祈りにおいて、このことは大切なことであります。

さらにパウロは9節以下でフィリピの人々がキリストにあって信仰の成長を遂げることを祈っています。このパウロの祈りは私たちの祈りでもあります。 パウロの祈りはフィリピ書が聖書に含まれたがゆえに、フィリピの教会の人たちだけでなく、今日を生きる私たちにも届いているのです。
私たちはパウロの祈りに呼応し、パウロの祈りが私たちの内で実現することを祈るべきです。ただそれだけにとどまらず、自分以外の人においても実現するよう に祈っていくことも大切なことです。
祈りは双方向性をもつことを私たちは知る必要があります。パウロとフィリピの教会の 人たちの間にはこの双方向性をもった祈りがなされていたといえるのです。

2009年8月9日「とこしえの愛をもって」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:エレミヤ書31章1~6節 3、遠くから、主はわたしに現れた。わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ。
4、おとめイスラエルよ、ふたたび、わたしはあなたを固く建てる。再び、あなたは太鼓をかかえ、楽を奏する人々と共に躍り出る。
5、再び、あなたは、サマリアの山々にぶどうの木を植える。植えた人々が、植えたその実の初物を味わう。
6、見張りの者がエフライムの山に立ち、呼ばわる日が来る。「立て、我らはシオンへ上ろう、我らの神、主のもとへ上ろう。」


説教要旨

「わたしはとこしえの愛をもってあなたを愛している」との御言葉は、私たちがいかなる状況におかれようと真実な言葉として臨んでいます。しかしそれを聞く 私たちはそのようには受け取れないのです。
今ある苦難を見ると、とても神の愛など信じることができないのです。神の言葉も信じることができないのです。

それが当時のイスラエルの民の思いでありました。なぜなら国は滅び、民は異教の地バビロンへと捕囚されていったのです。神の選びの民であるのに、ど うして神は私たちを見捨てたのかという思いが強くあったのです。神へのある種の絶望がそこにはありました。
そんな民に神は「とこしえの愛をもってあなたを愛している」と語られたのです。
神の愛は私たち人間から見ればとても愛することなどできない者を愛する愛です。

民がそのような苦難の境遇に置かれたのは、偶像礼拝をはじめとする民の罪があったからです。自らが招いたことであり、いわゆる自己責任を問われるこ とであります。
それにもかかわらず民は不遜にも神は私たちを見捨てた、神などもう信頼することなどできないと自ら神との契約を破ったことなど忘れたがごとく振舞ったので あります。普通ならそのような者をなおも愛するなどできないことです。

神はそうではありません。神の愛は主イエスの十字架において極まります。十字架を前にしてイエスをののしり、嘲った者に対しても、彼らの罪のゆるし を願われたのがイエス・キリストであります。
私たちの罪がいかに深く重くとも、なおも神は私たちを愛しているのです。「わたしはとこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ」とい う言葉が主の十字架において実現しているのです。

2009年8月2日「キリストは私たちの平和」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:エフェソの信徒への手紙2章14~22節 14、実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、
15、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、
16、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
17、キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。
18、それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つに霊に結ばれて、御父に近づくことが出来るのです。


説教要旨

私たちの周りには敵意に満ちている関係があります。国と国、宗教と宗教、民族と民族、人種と人種、階級と階級、会社と会社、隣人と隣人、さらに家族内にお いてさえあります。 聖書はキリストの十字架は敵意を滅ぼしたと述べております。
十字架の血潮によって私たちの間にある敵意は基本的には滅ぼされたのです。なぜなら私たち人間と神との和解がすでに十字架において果たされているからで す。

その神との和解という土台があるからこそ、どんなに困難に思えるような人と人との和解も可能であり、また事実神は和解をなすのであります。
今世界は和解の御業の成就へ向けてキリストの十字架のもとにあります。この地球という大きなキリストのからだである目に見えない教会には全世界の民が住ん でいます。全世界の民を神は救おうとされておられます。誰もそこから漏れる人はいません。

現実には敵意が相互に民の間にあったとしても、神はそこに和解のわざをなそうとされておられます。最終的には神は私たちの間から敵意を滅ぼし、和解 をなし、世界の民を一つにしようとされています。
この神の御心をなすために世界にある個々のキリストのからだである教会は 召されていることを覚えたい。

2009年7月26日「あなたは私の助け」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:詩編70編
2、神よ、速やかにわたしを救い出し、主よ、わたしを助けてください。
3、わたしの命をねらう者が恥を受け、嘲られ、わたしを災いに遭わせようと望む者が、侮られて退き、
4、はやし立てる者が、恥を受けて逃げ去りますように。
5、あなたを尋ね求める人が、あなたによって喜び祝い、楽しみ、御救いを愛する人が、神をあがめよといつも歌いますように。
6、神よ、わたしは貧しく、身を屈めています。速やかにわたしを訪れてください。あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。主よ、遅れないでください。


説教要旨
この詩人は神の助けが一刻も早く訪れるのを待っています。なぜなら詩人には死を覚悟するほどの危機が訪れているからです。その危機は切羽詰まったものであ るがゆえに、詩人は「速やかにわたしを救い出し」(2節)と神の助けを求めているのです。

普通わたしたちは、苦難の中にいないとき、神は近くにおられると感じます。一方苦難の中にいるとき、神は自分から遠く離れておられると思ってしまい ます。
しかし詩人はそうではなく、神は人生の良いときも悪いときもいつもそば近くにおられるとの確信をもっています。

事実神はいつもわたしたちとともにおられます。そば近くに。
それがイエス・キリストにおいて現れたインマヌエル(神われらとともにいます)の神であります。ですから詩人は遠く離れた神に祈っているのではなく、近く にいる神に祈っているのです。

神がいつもそば近くにおられるとの確信は神は助け主であり、逃れ場であるとの告白につながり、救いの確信ともなっているのです。そしてその告白は 「わたしは貧しく、身を屈めています」という姿勢から出てくるのです。
おごり高ぶりから出てくるものではありません。もしおごり高ぶりが祈りにあるなら、救いは訪れないでしょう。

わたしたちが詩人と同じように貧しく(主の前にあってへりくだること)、身を屈め、 主の助けを呼び求めるなら、詩人が確信したように主は必ず助けてくださることでしょう。

2009年7月19日「十字架のもとへ」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヤコブの手紙、1章9~12節
9、貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。
10、また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。富んでいる者は草花のように滅び去るからです。
11、日が昇り熱風が吹きつけると、草は枯れ、花は散り、その美しさは失せてしまいます。同じように、富んでいる者も、人生の半ばで消えうせるのです。
12、試練に耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。

説教要旨

今日の箇所は富める者と貧しい者が対比されています。この対比は物質的に富んでいる、貧しいということだけに留まりません。いろいろなことにおいて富むと いうことの危険が指摘されているのです。人は富むことで、往々にして傲慢になり、おごり高ぶり、神を忘れ、「神が二の次となる危険があるのです」

一方さまざまな面において貧しいということは、欠乏していることであり、欠乏を満たすものを求めるということになります。そこにはおごり高ぶるとい うことは起こりにくいのです。神はそういう人を求めています。貧しさゆえに、逆に神によって 高められるということが起こるのです。
人は試練の中にあるとき、おごり高ぶりは消えます。貧しく低くならざるをえないのです。私たちが試練の深淵にあるとき、そこにキリストの御手は伸ばされま す。そして引き上げられ、高められるのです。

逆に富める者はおごり高ぶるがゆえに、キリストによって低められるのです。低められたとき、そのことを感謝し、キリストに救いを求めることが大切で す、
おごり高ぶりが激しくなるとき、ついには草花のように滅び去ることさえ起こりかねません。そうならない前に、悔い改め、キリストの救いを仰ぎたいと思いま す。私たちはいつも十字架のもとにあって、貧しい者でありたい。

2009年7月12日「試練のとき」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:コリント人への手紙一、10章1~13節
11、これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。
12、だから、立っていると思うものは、倒れないように気をつけるがよい。
13、あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせ ることはなさらす、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

説教要旨

クリスチャンとしてこの世を生きる上で大切なことは神の栄光を現すということです。 イスラエルの民もそのために神に選ばれたのですが、その歴史がそうでなかったから、イスラエルを反面教師としてクリスチャンは生きるべきあることを今日の 箇所でパウロは語っているのです。

神の栄光を現すとは、神がそこに生きて働いていることを示すことです。そのために、私たちは御言葉に聴き従う必要があります。御言葉から離れると き、御言葉に聴き従わないときには、栄光を現すことはできないのです。
私たちが御言葉から離れるときは、私たちが試練に遭っているときであることが多いのです。試練の中にあるとき、神は遠くに行ってしまった、神の御顔を見る ことができないと 考え、御言葉以外のものに解決を求ることが多いのです。

しかし試練は神から来るものです。神が私たちのために下さる恵みです。試練において私たちがどれだけ神を信頼し、御言葉に頼り、御言葉に従うかを神 は見ておられるのです。試練の中にあっても神の栄光を現すことを私たちに求めているのです。
私たちは試練の中にあっても、なお神に信頼し、御言葉に従うなら、試練を乗り越えることができます。試練を乗り越えるごとに神への信頼は一層深まり、また 御言葉への信頼は 一層深まるのです。

また試練は神からくるがゆえに、私たちがもうこれ以上耐え切れないと思うとき、逃れる道を神は用意してくださいます。そして試練の終わりを私たちは 迎えることができるのです。
どうしてあのような厳しい試練を乗り越えることができたのかと振り返るとき、そこには神が共にいて、生きて働いておられたからに違いないと悟るのです。

2009年7月5日「深い淵の底から」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:詩編130編
1、深い淵の底から。主よ、あなたを呼びます。
2、主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。
3、主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐ええましょう。
4、しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです。

説教要旨

詩人は深い淵の底から助けを主に向かって呼び求めます。底ですから、もうこれ以上落ちることのない所であります。死を背負ったような状態で主を呼び求めて います。
そこには自分でもって、あるいは他のものでもって自分が犯した重い罪を贖うことができなという認識があります。主のみが罪を贖うことのできる御方であるこ とを彼はよく知っております。ですから主を呼び求めざるをえないのです。

しかし彼は罪の贖い主は主であることは知っておりますが、具体的にどういう形で罪が贖われるか知りません。律法には動物の生贄を献げれば、罪ゆるさ れることになって いますが、そのようなことで罪の贖いの確信を得ることはできません。主が確かにあなたの罪を贖い、ゆるすと言ってくれなければ平安はないのです。そんな主 の到来を彼は待ち望んでいます。見張りが朝を待つにもまして。

彼の希望は十字架の主イエス・キリストにおいて実現しました。彼の叫びは主イエスに届き、主イエスは彼のところにやってきたのです。何百年のあと に。そして十字架にかかられたのです。
彼は十字架を知っていませんでしたが、私たちはすでに十字架の主イエスを知っています。 十字架にこそ罪の贖いとゆるしはあるということを知っています。そのことを知っている幸いと平安を私たちはいただいているのです。

2009年6月28日「キリストの愛のうちに」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ガラテヤの信徒への手紙2章15~21節
17、もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょう か。決してそうではない。
19、わたしは、神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。
20、生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛 し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。
21、わたしは、神の恵みを無にしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。

説教要旨
パウロにとって律法は彼の信仰のすべてと言っていいほどの意味をもっていました。律法の遵守によって義とされる、救われると考えていたのですから、守るこ とに熱心になるのも分かります。しかしその熱心さが神に向かって自らの義を主張するようになっていたのです。
一点一画漏れることなく守ろうとすることはしんどいことです。しんどいゆえに神に自らの義を訴えることになるのです。しかし神はただ律法の遵守を要求する だけで応えてくれません。どれだけ守れば義とされるのか分からないから、また律法に励むことになります。 律法に励むには、義とされたいという欲求だけでなく、神からの罰を避けたいという思いがあったのです。

パウロはそのことの誤りをキリストとの出会いによって正されます。パウロにキリストを通して現れた神は律法をただ守るように要求し、守られない場合 は罰を与えるというような恐い神ではなく、十字架に私たち人間を救うために御子イエス・キリストを渡すほどに人間を愛する神でありました。
律法の迫りにおいて義とされようとする信仰ではなく、十字架上の神の愛の迫りにおいて、目を開かれ、義とされる信仰へと彼は転換したのであります。

律法にって生きる古い自分は死に、十字架に現れた神の愛によって新たに生まれたのです。今パウロはキリストの愛のうちに包まれて生かされているので す。内も外もすっかりキリストのものとなっているのです。
ここに私たち人間の本当の姿があります。パウロのようになるまで私たちは失われた者であります。本来の自分を見失っているのです。見失っている自分を神は 見出し、キリストの愛をもって迫り、愛をもって目を開き、愛の内に匿いたもうのです。そこに大いなる平安と喜びをパウロは見出したのです。

2009年6月21日「自由な生き方」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ガラテヤの信徒への手紙3章1~14節
7、だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。
9、それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。
11、律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。
14、それは、アブラハム与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちか、約束された"霊"を信仰によって受け るためでした。

説教要旨

今日の箇所は私たちが生きる上で大切なことが言われています。
それは自由であることの大切さです。自由は決して放縦ではありません。自由には責任が伴います。聖書における自由はキリストにある自由であります。キリス トに対しての私たちの責任を全うしていくところに真の自由があるのです。

その責任を果たす上で聖霊が必要となるのです。聖霊抜きで果たそうとするとき自由は失われます。窮屈な生き方が生まれます。パウロがガラテヤの教会 の人々を批判するのは、キリストへの責任ではなく、律法への責任になっていることであります。
律法の奴隷になってしまっている上、聖霊抜きで律法を全うしようとしていることでキリストにある自由が失われてしまっていることでありました。キリストは 十字架において律法の奴隷から私たちを解き放ち、キリストのもとに生きる自由を与えてくださいました。

しかしこの自由をガラテヤ教会の人々は律法へとあずけてしまったのです。私たちもさまざまなものにキリストにある自由をあずけてしまうことがありま す。この世で支配的な考えや価値観、風潮などに自らをあずけ、そのもとで右往左往しながら生きているときがあります。
そんなときキリストが見えなくなっています。私たちが合わせるべき物差しはイエス・キリストです。この世の物差しかイエス・キリストの物差しか、その選択 において私たちの自由な生き方も左右されることを覚えたいと思います。

2009年6月7日「目からうろこ」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:使徒言行録9章9~19節
9、サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。
10、ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは「主よ、ここにおります」と言った。
11、すると、主は言われた。「立って『直線通り』と呼ばれる通りに行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈ってい る。
12、アナニアという人が入ってきて自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」

説教要旨

今日の箇所は、復活の主イエスに出会い、目が見えなくなったその後のパウロのことが 書かれています。目が見えなくなったパウロが目からうろこのようなものが落ち、目が見えるようになり、洗礼を受けるというパウロの人生に一大転換を引き起 こすことが描かれています。
神は不思議な導きをもってパウロもアナニアも導きます。パウロはクリスチャンを激しく迫害することに熱心な人でした。一方のアナニアは迫害を受けているク リスチャンであります。

そのアナニアに主はパウロの目を見えるようにせよと言われるのです。 それを聞いたアナニアは思ったことでしょう。「なんて無茶なことを主は言われるのだろうか」と。
パウロを懲らしめよというのではなく、パウロを癒せと言われるのです。パウロという名前を聞くだけでも嫌悪感をもよおすのに、癒せとは何事であるか。アナ ニアは大いなる葛藤を覚えたことでしょう。しかし主は「行け」と言われるのです。
アナニアは抗しきれずにパウロのところへ行きます。嫌悪するパウロと面会します。 そのパウロに手を置いて「兄弟サウル(パウロ)」と発したのです。全く人間わざでは考えられないことが起こったのです。クリスチャンを迫害するパウロに対 して兄弟と呼んだのです。
パウロの方はパウロで、憎悪するクリスチャンに手を置かれ、「兄弟」と呼ばれるとは全く思ってもみないことでした。 このことは聖霊のなせるわざであります。パウロの目からうろこのようなものが落ちたのです。

パウロのみならずアナニアも同じように目からうろこのようなものが落ちたといえます。人間わざではありえないことが起こったのです。聖霊はまことに 目からうろこの経験へとパウロやアナニアだけでなく、私たちも導くのです。そして目が開かれた私たちを待ち受けるのはこれまでとは違う世界であります。和 解の福音の世界がそこに待ち受けているのです。

2009年5月31日「共存・共生の聖霊」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:使徒言行録2章1~13節
1、五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、
2、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
3、そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
4、すると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

説教要旨

今日世界では多くの言語が話されていますが、言語が異なるゆえに意思の疎通ができない状況です。しかしペンテコステにおいて、使徒たちが知らないはずの言 語を話したことが記されています。
地中海沿岸のさまざまな地域からやってきた人々の故郷の言語を知るはずもない使徒たちが話し出したのです。まこ とに驚くべきことが起こったのです。

このことは聖霊が注がれるとどういうことが起こるかを象徴的に記しているといえます。すなわち、それぞれがもっている言語的、文化的、民族的背景が 違っても、意思の疎通が可能になるということです。
世界的に言語をひとつの言語に統一して意思の疎通を図るというのではなく、聖霊による意思の疎通こそが聖書が告げるメッセージであります。
さらに聖霊において主イエスが臨在するところ、さまざまな違いによって理解し合えず、 対立、反目しているところに和解がもたらされ、意思の疎通ができるようになることを 語っているともいえます。

世界的規模においてだけでなく、身近な日常生活においても対立し合い、憎み争い合っている状況があるところに聖霊が注がれるとき、不思議なことに雪 解けが起こり、お互いを隔てる壁が崩れ去り、共存・共生するような関係が築かれる可能性が生まれることをペンテコステの出来事は私たちに告げているので す。
その聖霊の中に教会は誕生したのです。その教会に生きる私たちはそういう関係づくりをこの世にあってしていく使命をまた担っているのだということも覚えた いと思います。

2009年5月24日「キリストの昇天と御国の到来」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:使徒言行録1章3~11節
7、イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。
8、あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わ たしの証人となる」
9、こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。
10、イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って
11、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たの と同じ有様で、またおいでになる。」

説教要旨
私たちは自分にとって大切な人が亡くなったとき、前向きに生きることができなくなります。途方にくれることさえあります。大切さの度合いによって人それぞ れでしょう。
イエスの弟子たちにとって、主イエスは大切な人でありました。自分の人生の一切を賭けて付き従ってきた人です。それゆえに嘆きと悲し みは激しいものがあります。復活した喜びが大きかっただけに、今昇天して、共に生活できなくなることはとても耐えられないような痛みを伴います。

そんな弟子たちに天使たちは「なぜ天を見上げて立っているのか。天に上げられたイエスはまたおいでになる」と言われます。
この言葉には弟子たちのこれからの生き方について示唆するものがあります。天を見上げているままでは前に進まないではないか。またお会いするときが必ず来 るのだから、目を地上に向け生活しなさいとの示しがあります。

もっと言えば、確かに目に見える形で主イエスはいなくなるけれども、聖霊において主イエスは共にいることがペンテコステ(聖霊降臨)において示され るゆえに、希望をもって生きなさいとの励ましがあります。
私たちは今中間時を生きています。キリストの十字架と復活の時とやがて来るキリストの再臨の時(=神の御国の成就の時)の間の時を生きているのです。この 中間時においてイエス・キリストは目に見える形ではおられないけれども、聖霊においておられることを私たちは覚えたい。聖霊において共にいて慰めと励まし を与えてくださっておられます。

またこの中間時において私たちは福音宣教に励まなければならないことも覚えたい。福音宣教は私たちだけでするのではないのです。聖霊において主イエ スは私たちに福音宣教の力と知恵を与え、共に御国の成就に向けて生きてくださっておられるのです。

2009年5月17日「神の言葉と祈りによって」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:テモテへの手紙一、4章1~5節
1、しかし、"霊"は次のように明確に告げておられます。終わりのときには、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます。
2、このことは、偽りを語る者たちの偽善によって引き起こされるからです。彼らは自分の良心に焼印を押されており、
3、結婚を禁じたり、ある種の食物を断つことを命じたりします。しかし、この食物は、信仰を持ち、真理を認識した人たちが感謝して食べるようにと、神がお 造りになったものです。
4、というのは、神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。。
5、神の言葉と祈りとによって聖なるものとされるのです。

説教要旨

4節「神がおつくりになったものはすべて良い」といわれています。私たちはそのような神の良き創造物の中で生活している一方、人間が作り出した悪いものの 中でも生活しています。
人間が作り出すものすべてが良いものではありません。ときとしてその悪いものに支配されて生活するようなときもあります。

世間が定めた価値基準に基づいて生活することが多々あります。確かにそれは悪いものばかりではありません。良きものもあります。問題は良きものであ るかのように見せかけて私たちを誘うもの、内実は悪いものの場合です。悪魔(悪霊)はあたかも良きものであるかのように私たちを誘惑します。
私たちはその誘惑に負けるとき、神の道から離れた生活へと向かうことになります。私たちはそれに打ち勝たねばなりません。ではどのようにして打ち勝つの か。

自力では難しいことです。5節にあるように「神の言葉と祈り」によるのです。それは主イエスが神の言葉によって悪魔の荒野での誘惑に打ち勝たれたよ うにです(マタイ福音書4章1節以下参照)。
さらに私たちには祈りが必要です。その祈りとは端的に主の祈りの中にある「悪より救い出したまえ」という祈りにあります。日々神の言葉と祈りによって私た ちは悪魔の誘惑から解き放たれ、神の道を歩むことが可能になるのです。

2009年5月3日「幼子のように」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書18章1~5節
1、そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。
2、そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、
3、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。
4、自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。
5、わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。

説教要旨
イエスさまは「心を入れ替えて子供のようにならなければ天の国に入ることはできない」と言われます。私たちはなぜ子供のようにならないと天の国に入ること ができないのか分からないところがあります。
まずこのように言われて私たちが考えることは、純真な心にならなければいけないのかということです。主イエスは決してここで純真な心をもたなければならな いという意味で言われていません。「自分を低くして」ということが付加されています。子供は文字通り低いです。高くはありません。

私たちは高いところに到達するということを目標にして生きている面があります。はなはだしい場合は、神のごとくなろうとすることもあります。神のい るような高いところに自らを祭り上げることさえ私たちはしようとします。
そのような人に天の国はないということを主イエスは言われているのです。たえず神の御前にあって自らを低くしていく人が天の国に入ることができるのです。 神の御前にあって 自らを高くしていこうとする人には天の国は遠いのです。

またこどもは他者に対する依存が大きいです。年が幼くなればなるほど、他者依存は増していきます。
そのように私たちも神に依存する存在であることを認め、神により頼んで生きていく人に天の国は近いのです。私たちはこの主イエスの御言葉によって、この世 が評価する高きに上るということから解放されます。
解放されて、ただ神により頼んで生きることの幸いへと導かれるのです。

2009年4月26日「すべての民を弟子とせよ」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書28章16~20節
18、イエスは、近寄ってきて言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
19、だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け
20、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

説教要旨

今日の箇所はいわゆる主イエスの大宣教命令といわれているもので、多くのキリスト者たちを伝道へと突き動かしてきた御言葉であります。「すべての民をわた しの弟子にしなさい」(19節)といわれていますが、主の弟子になるとはどういうことを意味しているのでしょうか。
それは「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」(18節)との御言葉と関係しています。それは主イエスの主権のもとに入るということを意味していま す。主イエスに一切を献げ、支配をゆだね、従うということであります。いかなるこの世的権能にもひれ伏さないということです。また主の権能を超えて権能を 振るおうとするこの世的権能は拒否するということでもあります。これが真の主の弟子性であります。

しかしこの弟子性を貫徹することは容易なことではありません。事実多くのキリスト者はこの世の権能に妥協し、またおもねり、ひれ伏すことさえしてき たのであります。この世の権能が悪魔的なものであっても、そうしてきたこともあります。
そんな弱い私たちでありますが、主はいつも私たちと共にいてくださると約束されておられます。共にいて私たちに力を与えてくださっておられます。
宣教師たちは激しい迫害の中にあっても、この主の約束を堅く信じ、福音宣教に邁進していったのであります。伝道困難な日本でありますが、私たちも主の約束 を堅く信じ、福音宣教に励んでいきたい。

2009年4月19日「空しさの中で」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書21章1~14節
4、既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。
5、イエスが、「子たちよ、なにか食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。
6、イエスは言われた。「船の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げること ができなかった。
7、イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。

説教要旨

イエスの弟子たちは、復活の主イエスにすでに2度会っているのですが、まだ主は復活されたということに対して半信半疑であります。確信がもてないでいま す。
確信がもてないとき、復活のことに限らずいろいろなことにおいて何か虚ろなものを私たちは感じます。

特にこれからの人生、どのようにして生きていったらいいのかという問いに対して、はっきりとしたこれといった確信がもてないとき、心は虚ろでありま す。人生のすべてを賭けてきたものが失われたときは特にそうであります。
弟子たちは主イエスにすべてを賭けて生きてきたのです。それが十字架で死んでしまい、賭けてきたものが失われました。

しかしそのあと復活の主イエスが彼らのところに現われても、彼らは簡単には信じることができませんでした。復活の確信がもてないでいたのです。彼ら の心は、主イエスなきままで、これからどう生きていったらいいのかわからない空しさに支配されていました。
そんな中復活の主イエスはまた彼らのところに現われ、復活の確信へと導くのです。まさに3度目の正直という感じです。

弟子たちを復活の確信へと導いたものは、網が破れそうになるほどの大量の魚の捕獲でありました。神の圧倒せる恵みでありました。
ルカ福音書5章にもこれと似た話が記されています。おそらく弟子たちはかつてあった同じようなことがまた起こったことで、「あああのときと同じだ」と悟 り、主イエスは確かに復活したのだと確信したのでしょう。

私たちが復活の主を見失っているとき、弟子たちと同じように私たちの心は空しさに支配されます。しかし復活の主イエスを見出すとき、空しさは終わり を告げ、主は生きて今も私たちと共におられるとの確信をもてるようになり、生きる喜びと希望をもって主と共に前進することができるのです。

2009年4月12日「信じる者になりなさい」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書20章24節~31節
24、12人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
25、そこで、ほかの弟子たちが、「私は主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手 をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
26、さて8日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和 があるように」と言われた。

説教要旨

イエスさまは29節で弟子のトマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」と言われました。
よく考えてみれば、トマスは復活の主を見ただけでは信じられない、触らないと信じられないと言っています。ですから主イエスの言葉は何かトマスには不適切 なように思われます。言うなら「わたしに触れたから、あなたは信じたのか」となるはずであります。

そのようには言われなかったということは、実はトマスは復活の主に触ることをしなかったのではないでしょうか。主イエスは信じられないトマスに「あ なたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と 言われたのです。
しかしトマスはその主イエスの言葉で十分でありました。あえて触れることまでしなくても、その言葉でトマスは主イエスであることを悟ったのです。

そして告白します。「わたしの主、わたしの神よ」(28節)と。
復活信仰の真髄は、見たから信じる、触れたから信じるというところにはなく、主イエスの言葉に触れ、神の御子イエス・キリストを信じるところにあるので す。 トマスは実は主イエスが言われる「見ないのに信じる人は、幸いである」との祝福の言葉を受ける側の人間に立っているのです。私たちは主イエスを目で見るこ とはできません。またそのからだに触れることもできません。しかし御言葉に触れ、御言葉に生かされることはできます。
そのとき確かに主イエスは復活し、今も生きて私たちに働いておれることを実感できるのです。

2009年4月5日「イエスさまは私たちの御者」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マルコによる福音書11章1~11節
1、一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、
2、言われた。「向こうの村に行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさ い。
3、もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐにお返しになります』と言いなさい。
7、二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。

説教要旨

今日は棕櫚の日です。主イエスがエルサレムに入城された日です。入城されるに際して主イエスは子ろばに乗られたのです。これには意味があります。
まずゼカリヤ書9章9節10節と関係しています。
メシアはろばに乗ってこられるとの預言の成就としての意味があります。メシアは決して勇ましい馬に乗ってくるのではなく、戦争とは無縁のろばに乗ってくる のだということです。つまり平和の主として来られるということです。

平和の主としての主イエスに私たちは歓呼の叫び声を挙げたい。
しかし今日の箇所の群衆はそんなメシアをイエスに期待していたのではなかったのです。あくまでローマ帝国を打ち負かすような勇ましいメシアを主イエスに期 待していたのです。ですから抵抗することもなく十字架につけられるようなひ弱な主イエスに失望し、主イエスを嘲笑するような態度へと変わっていくのです。

しかし十字架の主イエスこそが、メシアであることを聖書は告げています。 群衆と同じような見方や態度をとることしかできない私たちの罪を主は十字架で贖なわれました。私たちの罪はすでに十字架の主によって担われ、贖われていま す。
その恵みに私たちはどのように応えていったらいいのでしょうか。それは罪の重荷をすでに解かれた私たちでありますから、今度は主イエスを担うということで 十字架の恵みに応えるのです。

すなわち子ろばとしての私たちの使命があります。主イエスによって子ろばのようにご用に用いられることです。
主が導くままに従っていく、そのような子ろばの御者として主イエスを担うのです。一人で担うのではなく、皆で共に担うのです。そこにキリストのからだとし ての教会があります。教会は御者であり平和の主であるイエス・キリストに従順に従うことで キリストのからだとしての教会の使命を果たしていくのです。

2009年3月29日「一粒の麦」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書12章20~29節
23、イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。
24、はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
25、自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
26、わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父 はその人を大切にしてくださる。

説教要旨

主イエスは一粒の麦の死のことについて言われます。主イエスはここでは、麦の種のことを言っているのです。種がそのままでは種のままであり、決して実を結 ぶことはありません。種が種でなくなることで実を結ぶことを言われているのです。

種が種でなくなるとは、私たちの自我が新たなものへと変わることを意味します。「自分の命を愛する者」とは自我を愛する者と言い換えてもいいことで す。自我を愛し続ける限り、私たちには新生がないことを語っているのです。新生がないところに実を結ぶことはありません。

一方自我に死ぬ者は新しい命を与えられ、その命は永遠の命という実を結ぶことを主イエスは教えているのです。では一体自我に死ぬにはどうしたらいい のでしょうか。それは主イエスの十字架の血潮を受けることです。十字架は私たちの自我を打ち砕きます。打ち砕かれた自我に代って、十字架の主イエスを受け 入れるとき、私たちの内に新生の出来事が起こるのです。

2009年3月22日「神の子羊イエス」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書1章29~34節
29、その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ。
30、『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである。』とわたしが言ったのは、この方のことであ る。
31、わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けてきた。」
32、そしてヨハネは証しした。「わたしは、霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。

説教要旨

バプテスマのヨハネは主イエスを見て「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」(29節)と言いました。
これはキリスト者にとっても大切なことであります。私たちは他の誰でもない主イエスが「世の罪を取り除く」御方であることをまず指し示すべきであるので す。

歴史的に見れば、教会は主以外のものを指し示すことがありました。世の罪を取り除く神の子羊よりも偶像的なものを指し示すことがありました。
ま た主イエスを指し示すことをしても、「世の罪を取り除く」主であることが軽んじられることもありました。

また主イエスではなく、ルターやカルヴァンを指し示すこともありました。ルターやカルヴァンはヨハネと同じように「世の罪を取り除く神の子羊」を指 し示そうとしたのです。
その後継者たちはともすればそうではなく、主イエスよりもルターやカルヴァンの権威を重んじるようなところもありました。 主イエスがルターやカルヴァンの権威に服するような面があったのです。その結果教会の分裂ということも起こりました。

私たちは主イエス・キリストの権威に服するべきであるのです。
主の権威に服するとは、私たちが人間ゆえに犯す罪を十字架の主にゆだねることでもあります。ゆだねて主イエスに罪を処理してもらうことです。
ゆだ ねることができないとき、十字架は見えなくなっていきます。主にゆだねるとき、神との和解、また人間相互の和解も起こってくることを覚えたい。

2009年3月15日「神の全き犠牲」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヘブライ人への手紙9章11~28節
11、けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものでは ない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、
12、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。
27、また、人間はただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、
28、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待望している人たちに、救いをもたら すために現れてくださるのです。

説教要旨

今日の箇所は大祭司キリストのことが言われています。
旧約時代の祭司とは違い、キリスト自らが神と私たち人間との和解のためにその身を十字架に犠牲(いけにえ)として献げられたことが説かれています。動物の 犠牲を介することなく、直接的に神と私たち人間との和解のための仲保者となられたのです。

なぜなら動物の犠牲では不完全であるということです。また他の人間の犠牲でも不完全であるということです。どのような人間も罪人であり、どのような 業を積んでも罪人であることから自由になることはできず、神との和解を自らの力ではできないからです。

神自らが手を差し伸べてくださらない限り、私たちには神との和解は不可能なのです。そのため愛する御子イエス・キリストが私たちに差し出され、動物 に代わる犠牲として献げられたのです。
そしてその犠牲は一度限りであります。ゆえに非常に重い意味をもっているのです。

なぜ重いのでしょうか。それは一度に全人類の罪を担い、贖うからです。ほかの誰も一度にそんなことができる人はいません。誰もそんなことをしたら、 一瞬のうちにつぶれてしまいます。
それは神の御子イエス・キリストのみができることであるのです。言い換えれば十字架の一点に私たちの全人類の罪がのしかかっているのです。

そして十字架の犠牲は完全なる犠牲です。中途半端な犠牲ではありません。
10パーセント罪が贖われた、あるいは50パーセント、はたまた99パーセント贖われたというものではありません。100パーセントの贖いです。完全に清 く罪なき御方イエス・キリストであるから、100パーセントの罪の贖いが果たされるのです。
ここに私たちの平安があります。私たちはその平安に身をゆだねることがイエス・キリストの犠牲ゆえにゆるされているのです。その平安は、私たちが世にあっ て生きている日々においても、また世を去るときにも、最後の審判の日にもあずかることができるものなのです。

2009年3月8日「神様の宝物」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書13章44~46節
44「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑 を買う。
45、また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。
46、高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。

説教要旨

今日の箇所は天の国(天国、神の国)についてのたとえであります。
このたとえ話で主イエスはこの地上のどんな宝よりも天の国は素晴らしいものであり、 すべてのものを売り払ってでも手に入れるべきものであることを教えています。

しかしここでよく考えてみてください。果たしてすべてを売り払うようなことができるでしょうか。そんなに素晴らしいものであるなら、手に入れたいと 思うかもしれませんがすべてを売り払うとなると尻込みするのではないのでしょうか。実行となると容易ではありません。直に現物を見ているのではないのです から、なおいっそうリスクが伴います。 天の国が果たして存在するのかどうか目では確かめようがないからです。

これは信仰においてしか信じることができないことがらです。主イエスを信じる信仰でしか確かめることはできないのです。
そんな不信仰の私たちでありますが、神は憐れみ、主イエスを私たちの救いのために 十字架に渡し、私たちを獲得してくださったのです。御子イエス・キリストの血潮という 代価を払い、私たちを買い戻してくださったのです。
私たちはそういう意味で神さまの宝物です。神様がこれ以上ない代価を私たちのために 支払れたのです。この神の愛に応答して、神さまの宝物にふさわしく生きていきたい。

2009年3月1日「御言葉なるキリスト」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ルカによる福音書10章38~42節
38、一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
39、彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
40、マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせています が、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」
41、主はお答えなにった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
42、しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

説教要旨

今日の箇所にはマリアとマルタという主イエスに対して異なった態度をとった姉妹が登場してきます。よく教会ではマリア型かマルタ型かの対立があります。両 者は引き裂かれた関係にあります。両者の対比は、マリアは聞き入るだけで何もしない、一方マルタはせっせと主に仕えているではないかという対比です。両者 は静と動という関係でよく捉えられます。ともすれば動の方が優位に立つ場合が多いのです。動かないことには何も事は始まらないではないか、座っていては何 も始まられないではないかという考えの優位です。

しかし主イエスはマリアの方を弁護するのです。「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」(42 節)と。
ここには聖書独特の考えがあります。神の御言葉を聴くことからすべては始まるという考えです。
天地創造も御言葉によって成りました。神の御言葉なしにはこの世界は存在しません。御言葉は私たちを創造する力、何かを生み出す力、改革する力をもってい ます。御言葉なしには私たちは新たな創造を受けることはできないのです。御言葉を聴くことなしには、私たちは力をもつことができないのです。ですからまず 御言葉です。御言葉を受けて、御言葉に押し出され私たちは行動するのです。

マリアはこのことを選んだのです。マリアなしにマルタはないのです。まずマリアのように主イエスの御言葉を聴いていくことの中で、この世の思い煩い から解き放たれた、自由にされたマルタが現れてくるのです。このようにして主イエスはマリアとマルタという両者の対立、分裂を和解させるのです。

2009年2月22日「メッセージ」市岡裕子姉

聖書箇所:マタイによる福音書6章34節
34、だから、明日のことまで思い悩むな。明日は明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。

市岡裕子姉の個人史において、特に父、故・岡八朗氏に関係した様々な苦難や試練があったけれども、

そのつど神さまが道を備え、恵みのうちに 導いてくださったことにより、現在の自分があることを証しされました。

曲名

  • Amazing Grace

  • 感謝します

  • I know who holds tomorrow

  • My life is in Your hand

  • たいせつな人

  • 君は愛される為生まれた

2009年2月15日「御国への方向転換」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書21章28~32節
29、兄は「いやです」と答えたが、あとで考えなおして出かけた。
30、弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は「お父さん、承知しました」と答えたが、出かけなかった。
31、この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄のほうです」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦た ちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。
32、なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれをみても、後で考えなおし て彼を信じようとしなかった。

説教要旨

今日の箇所はふたりの息子のたとえ話です。父の招きに対して異なる反応をみせたふたりの兄弟です。兄は最初はぶどう園(神の国)に行くことを拒んだのです が、あとで考え直し出かけたのです。一方の弟は最初は行きますと答えたのですが、実際には出かけなかったのです。

この弟は祭司長や民の長老たちであります。世間からは立派な人と見られているのですがバプテスマのヨハネが悔い改めを宣べ伝えても信ぜず、ましてや 主イエスを受け入れることはなかったのです。
徴税人や娼婦たちと一緒に神の国に入ることを拒んだのです。彼らは「どうしてあのような罪深い者と同じでありえよう」と思ってしまったのです。

一方の兄は徴税人や娼婦たちを表しています。彼らは最初は拒否しますが、ヨハネの悔い改めを信じ神の国(ぶどう園)へ行くことに決めるのです。
そして主イエスは、世間からは罪深い者とみられている彼らの方が先に神の国に入ると言われるのです。

しかし私たちは祭司長や民の長老たちが神の国に入ることはできないと結論づけないように気をつけたい。
主イエスは神の国に徴税人や娼婦たちが先に入ると言われているのであって、祭司長や民の長老たちがさらに後で悔い改め(方向転換)してぶどう園(神の国) に向かうなら、神の国の門は彼らに閉じられることはないのです。神の御心はすべての人が救われることです。一人でも滅ぶことは御旨ではありません。

ゆえに神は大いなる忍耐をもって、今は神に背いている人々が悔い改め、神に従うことを願っているのです。
どの人も神の救いの招きからはずれることはないのです。御国の招きから排除されることはないのです。

2009年2月8日「主が共にいませば」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書14章22~33節
25、夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところへ行かれた。
26、弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。
27、イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
33、舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。

説教要旨
今日の箇所で主イエスから弟子たちは遠く離れています。主イエスが目には見えない状態の中で弟子たちだけで舟に乗り込み沖へと出ていきます。そこに逆風が 吹き、弟子たちは悩まされていました。
そんな窮状を主は知り、弟子たちのところへと湖の上を歩いて近づいていきます。弟子たちは主イエスを幽霊だと思い、恐怖に陥ります。主イエスを主として認 識できないのです。ここに危機はより深まります。

救い主イエスが窮地を救うために来ているのに見えないとは教会の危機であり、信仰の危機であります。そこで主は言われます「安心しなさい。わたし だ。恐れることはない。 この声でやっと主であることを知ります。
ペトロは主であると分かると「水の上を歩いてそちらに行かせてください」と申し出ます。主イエスから「来 なさい」と言われ、ペトロは舟から出て水の上を歩いていきます。

しかし強い風に気をとられ、怖くなり沈みかけます。ここでも主が見えなくなっているのです。今度は沈みかけるという、より大きな危機がペトロを襲っ ています。
強い風の方が実在する主イエスよりもペトロの心を支配しているのです。滅びへとペトロは向っています。そんな絶対絶命のペトロは「主よ、助けてください」 と叫びます。すると主は手を伸ばし、ペトロを引き上げるのです。そして舟に二人が乗り込むと風が静まったのです。

まず弟子たちは山で遠く離れて祈っている主イエスの臨在を感じることができませんでした。そして彼らの窮地を救うために近づいて来られる主イエスを 認識することができませんでした。
さらにペトロは主イエスを認識しても、強い風に心を奪われ、主イエスが見えなくなりました。しかしそんな信仰薄 いペトロを見捨てず、救おうとされた主の愛に応えて、私たちはたえず弟子たちと共に「本当に、あなたは神の子です」と告白し続けたい。主イエスは、私たち が主がいるのに主が見えない信仰の薄さにもかかわらず、私たちを救わんとされます。このことは大きな恵みであり、慰めではないでしょうか。

2009年2月1日「思いがけない呼びかけ」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ルカによる福音書19章1~10節
5、イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
6、ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
7、これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」
8、しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたなら、それ を四倍にして返します。」

説教要旨
徴税人の頭ザアカイがイエス・キリストと出会う物語です。
当時徴税人はユダヤ人同胞から非常に嫌われていました。単に嫌われていただけでなく罪人 みなされていました。なぜか。それはローマ帝国の支配の下、税金を収奪し、不正な取り立てをしていたからです。
そんな社会から疎外されたザアカイ はイエスを一目見ようとしますが、背が低いため群衆に遮られて見ることができません。そこでイチジク桑の木に登りイエスを見ようとするのです。

見るだけで十分であったのですが、主イエスの方から思いがけなく呼びかけがなされたのです。それもザアカイという名前をもって呼びかけられたので す。ここに神は群衆という塊で私たちを見ているのではなく、ひとりびとりを区別して見ているということが分かります。またその区別が番号でもってなされる のではなく、固有の名前をもってなされているということは、神は私たちひとりびとりをかけがえのない者としてご覧になっておられるということです。

さらに主イエスは「ぜひあなたの家に泊まりたい」(5節)と言われます。世間からのけ者にされていたザアカイにとって、これは青天の霹靂であったこ とでしょう。この主イエスの御声でザアカイの回復が図られていきます。社会から失われ1いたザアカイは今主の御声によって社会へと連れ戻されるのです。
ザアカイはその突然訪れた神の大いなる恵みに応答し、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それ を4倍にして返します」(8節)とまで申し出るのです。収奪する者から施す者へとザアカイは転換したのです。

イエスとの出会いはこのような大きな転換を引き起こしていきます。ここで注目することは、ザアカイの申し出があったから、主イエスはザアカイの家に 泊まるということをされたのではないということです。
まず神の大きな恵みがあり、それを受けてザアカイの申し出があったということです。圧倒せる 恵みにザアカイは人生の大転換をしたのです。この大転換(収奪する者から施す者へ)は、神が求める人間の本来的な生き方(愛し合い、助け合う生き方)への 立ち返りであります。このようにして失われた者が回復されるのです。

2009年1月25日「神の国と神の義」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書6章25節~34節
25、「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思いなやむな。命は食べものより大切で あり、体は衣服よりも大切ではないか。
32、それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがもなあなたがたに必要なことをご存じである。
33、何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
34、だから、明日のことまで思い悩むな、明日のことは明日自らが思う悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。

説教要旨
イエスさまは「明日のことまで思い悩むな」と言われます。そのようにしたいと私たちは思いますが、現実には思い悩んでしまうのです。
イエスさまは思い悩むがことが悪いと言われているのではなく、思い悩むことを将来へとゆだねることができない私たちに神の恵みを与えるために「明日のこと まで思い悩むな」と言われているのです。

「明日のことまで」であり、今日を思い悩むことはある意味で大切なことであります。人間は将来に向けて計画を立てることができます。そのような賜物 を神は他の動物と違って私たち人間に与えてくださいました。その賜物を私たちは行使すべきであります。

将来に向けての計画で私たちは思い悩 みます。計画が御心に沿ったものであるかどうかの吟味がそこでは必要です。
余りに自我の追求のための計画であるなら、神は嘆き悲しむことでしょ う。

イエスさまは「まず神の国と神の義を求めよ」と言われています。神の国も神の義もともに他者と関わりをもつ言葉です。絶対他者なる神と、また隣人と ともに生きることで、神と隣人との正しい関係を持つことで神の国が神の義が現れてきます。そこでは自我の飽くなき追求は断念されぜるをえません。自己中心 的生き方は断念せざるをえません。

何を食べようか、何を着ようかと私たちの自我は際限なく思い悩みます。しかし神の国と神の義を求めるとき、将来に向けて他者とともに生きる計画をせ ざるをえません。自我の欲望を抑制せざるをえないのです。そのことで世界中で明日の命さえ脅かされている人々が、飢餓の中にいる人々が、生活が劣悪にある 人々が救われることが起こってくるのです。
しかし計画が将来実現するかどうかで私たちは思い悩まないでいいとイエスさまは言われているのです。

「明日のことは明日自らが思い悩む」とは、神ご自身が、私たちに代って明日のことを思い悩むということです。明日という日は神の御手の中にあり、私 たちが思い悩むものではなく、神にゆだねよということです。その日に労苦した思い悩み(将来に対しての計画)はその日だけで十分であるとの御声をしっかり と聴きたい。

2009年1月18日「見えるという罪」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書9章13~41節
24、さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度む呼び出して言った。 「神の前で正直に答えなさい、わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ」
25、彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、 目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」
33、あの方が神のもとから来られたのでなければ、なにもおできにならなかったはずです。

説教要旨
ヨハネによる福音書9章1節以下の箇所で、生まれつきの目の見えない人がイエスによって癒されるという 出来事が起こりました。しかしながらこの人はまだイエスを主(メシア)として見ていません。
預言者の一人として見ています(17節)。この人は肉体的には目は開かれたのですが、 まだ心の目は開かれていないのです。イエスを主として受け入れていないのです。

私たちが本当に目を開かれるのは、イエスを救い主として受け入れ信じることで始まるのです。
しかしファリサイ派の人たちは、「自分たちはすでに目が開かれている、だからすべて見えるのだ」と 自負していたのです。そんな彼らを主イエスは、実は見えていないと批判されます。

私たちもともすればファリサイ派の人たちと同じような過ちを犯します。 主イエスによって目が開かれているから、もう道案内人なしに自分で間違いなく歩いていけると自惚れ、 高慢になるときがあります。
私たちは主イエスによって救われてもなお目が見えていないのだということに気づく必要があります。
目が見えていないから、ただ主イエスによりすがり、行くべき道を導いてもらわなければならないのです。 主イエスが私たちの目となっていただかなくてはならないのです。主イエスによって目が開かれるとは、 主イエスの目によってすべて導かれることと言い換えることができるのです。

2009年1月11日「荒野のからの声」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:申命記3章23節~4章9節

説教要旨
今日の箇所はモーセが乳と蜜の流れる約束の地カナンを目の前にして、
いよいよ約束の地へと入るイスラエルの民に、これからどのように生きていったらいいのかを 語り聞かせる箇所です。
モーセも民と一緒に約束の地に入ることを願っていたのですが、主の御心はそうではなく、 モーセは入ることなく死を迎えねばなりませんでした。

そういう意味でいわゆる遺言的な意味をもっています。
もし神から授かった戒めを忠実に守っていくなら、神の民として祝福を受けるが、 そうでないと滅びが待っているとモーセは民に告げるのです。

民はたえずこの荒野からのモーセを通しての神の声を聞く必要がありました。 しかし民はそれができず滅びへと向かうことになります。
民は約束の地に入り、さらに王国を作りあげ、ソロモン王の時代に物資的な繁栄の頂点を迎えます。 しかしその頂点においてすでにモーセの10戒に違反する罪を犯していたのです。 以後の王国時代の大半は神の御心から離れての歩みとなりました。そこでかずかずの預言者たちが起こされ、たえず神に立ち帰ることが告げられましたが、それ もできず最終的に国は滅びました。モーセの無念さは幾ばかりであったことでしょう。 私たちもともすれば物質的な繁栄の中にあって荒野からの声を忘れ、神の御心から離れることがあります。 荒野の厳しい声よりも豊穣を説く声に誘われがちになります。 しかし荒野からの声こそが繁栄の中にあるときこそ聴くべき声であるのです。

2009年1月4日「シメオンの本望」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ルカによる福音書2章25節~38節
25、そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまってい た。
26、そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。
28、シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
29、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。
30、わたしはこの目であなたの救いを見たからです。

説教要旨
今日の箇所でシメオンという人が登場してきます。このシメオンは幼子イエス様に出会います。彼はただちに幼子がメシアであることに気づきます。
ど うしてメシアであると分かったのでしょうか。それは聖霊によってです。

私たちも聖霊によらなければナザレのイエスがメシアであるとは認めることができないのです。事実ファリサイ派や律法学者たちは世間から見れば立派な 信仰者でした。しかしナザレのイエスにメシアを見ることはできなかったのです。 シメオンは主イエスと出会い、感謝と讃美を献げます。29節「主よ、 今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」と歌います。 それまでシメオンは聖霊を通して「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」(26節)とのお告げを受けていました。今やそのお告げが実現します。シ メオンは死を覚悟しつつも、それを超えていくほどの喜びをもって讃美を献げたのです。メシアに出会えたことで、もうこの世に未練はない、もう死んでもいい との思いを抱いたのであります。それほどにメシアに出会うということは人生にとって大きな出来事であります。 死をも乗り越えさす力をもつものであるのです。なぜならメシアは永遠の命をもたらす御方としても来られているからであります。